「推しが苦手な人とコラボするのが嫌だ!」というときに試してみたこと

推しが自分の苦手な人と絡んでるのが嫌だ!

推しが私の苦手な人とコラボ。私はどうしても見れない……つらい……

な人向け【①少し深く知ってみると好きになることもある(ならないこともある)②どうしても無理なら避ける③推しは自分のために存在しているわけではない】という話。

私は10代から20代前半にかけてバンドの追っかけをする者だった。まわりもみんな若く「他人」との距離感も手探りで、推しのバンドや推しのメンバーにのめり込みがちになり、自分の周辺はいつもピリピリしていた記憶がある。

「あのバンド嫌いだから一緒にイベント出ないでほしい」とか「メンバーの誰々が苦手。早く辞めないかな」とか仲間うちで話したり、ひどくなると別のバンドのファンを攻撃したり、メンバーに直訴したりする人もいた。

今はSNSでやるような「厄介ファン同士のあらそい」を、リアルで顔を突き合わせてやっていたわけだから、そりゃあ疲れる。

心がもみくちゃになるようなしんどい推し活(という言葉は当時まだなかったけど)の経験を経ていろいろと悩んで自分なりに克服し、またはあきらめ、枯れると同時に丸くなり、だいぶ時は流れた。

敢えて今の推しを挙げるならゲーマーやストリーマー界隈。見たいものだけ&見たいときだけ見る方式で平和に楽しんでいる。

そんな界隈でもよく「推しが苦手な人とコラボするのが嫌」みたいな悩みを目にすることがある。

同じことで悩んでいた昔の自分を思い出し、「推しが苦手な人と絡んでぐぬぬしたとき、私はどうすることで楽になってきたか」を考えてみた記事。

「少し深く知ってみたら、そんなに嫌な相手ではなかった」

意外に思うかもしれないけど、いちばん自分の中で多かったのが、

「苦手だ嫌いだと思ってきたけど、少し深く知ってみたらそんなに嫌な相手ではなかった」

というケースだった。

【ザイオンス効果】でささいな接触が好感につながったのかも

昔、推しのバンドに入ってきた新メンバーが見た目も態度もいけすかなくて演奏も好みと違うしで、絶望していたことがあった。新メンバーと言っても出戻りで、私がファンになる前に在籍していた旧メンバーだったため、まわりのファンたちはのきなみ「歓迎ムード」「おかえりムード」なのも面白くなかった。自分だけ取り残されたようなモヤモヤした感覚で、その苛立ちゆえよけいに新メンバーが好きになれなかったのだった。

でもライブのたびに顔を合わせ、ほんの数秒ていどの挨拶を重ねていくうちに「あれっ、別にイヤな人じゃないな」みたいになっていった。そうすると最初はいけすかないと思っていた見た目や態度も、そう悪くもない気がしてきた。(ただ、演奏に対する好みは変わらなかった。)

たったの一瞬、数秒の挨拶を交わしていただけなのに、じっくり話したわけでもなく、なにか長所を見つけたわけでもないのに、不思議だった。

あとで知ったけど【ザイオンス効果】というのがあって、接触の機会を増やすほど相手が好ましく感じられるようになるらしい。「複数の人物写真をランダムに繰り返し見せられると、見た回数の多かった人物に好感を抱く」みたいな実験結果もあるそうだ。

要は、まったく知らない存在というのはそれだけで脳が警戒し、それが敵意に似た感覚となる。繰り返し接触することで脳が安全だと判断し、その安心感が好意に似た感覚となる、ということなのかな、と思う。

全部のケースに当てはまるわけではないけど、私の場合はもともといい人だった新メンバーを勝手にひがんで嫌っていただけの話なので、接触回数が増えるだけで順調に好感度が安定したのだろう。

これに関しては自分の中にいくつも思い当たるケースがあって、意外と「回数を重ねることで普通に好きになる」みたいなことって多いのかも。と感じている。

「毛嫌い」状態がいちばん自分もしんどい

今も、あまり知らないまま周囲の評判だけで判断して食わず嫌いしているストリーマーはわりかしいる。その人が推しと仲良くなってコラボが増えたりすると、最初は見ようか見まいか逡巡する。

だけど上に挙げた【ザイオンス効果】なのか、何度も見かけているうちに普通になることが多い。さらに、いいところや好ましいところも見えてくることもある。むしろ事前イメージが悪かったからこそ「見てみたら思ったより好きだったな」と甘い加点になることもある。

ほとんど何も知らないと警戒心からなのか「毛嫌い」「何もかも嫌い」「名前を聞くだけで拒絶反応が出る」になりがちで、その状態が自分もいちばんしんどい気がする。

けど、ある程度知って「こういうところはまあ好きだけど、こういうところはあんま好きじゃない」くらいまでわかってくると、少なくとも「毛嫌い」ではなくなる。理性的な「嫌い」になる。

激情的な「嫌い」はしんどいが、理性的な「嫌い」になるだけでかなり気持ちが楽になるんだな、というのが最近した発見の一つだ。

あんまり「名前を見るのもイヤ」な存在がたくさんいても生きづらいので、絶対イヤなやつだからと決めつけて完全に遮断してしまわないようにしている。

好ましいところを見つけるのは意外と簡単かも

自分の場合、一つでも相手の好ましいところを見つければ「好き」と「嫌い」のバランスがとれて落ち着くので、あくまでも利己的な目的で相手の好ましい面を探す。

いいところがまったくない人というのはいないはずで、そんなにがんばらなくても意外といいところや好ましいところの一つや二つはすぐ見えたりする。

長所とか美点でなくても、自分との共通点を見つけると安心して好ましく思いやすい、らしい。たとえば出身が同じだったり誕生日が近かったり好物が同じだったりというだけで好ましくなったりもするようだ。

私の場合「実家では雑種の犬を飼っていて、よく面倒を見て可愛がっていた」ということを知っただけで、今まで苦手だった相手への好感度が爆上がりしてしまうことがある。

逆に、大好きな相手にでさえ「こういうところはあんま好きじゃない」という部分だってある。

ということは推しも苦手な相手も「好きなところ」と「嫌いなところ」のマーブル具合が違うだけで、なんかのアレで好きになる世界線もあれば嫌いになる世界線もあるんじゃないか。

現に「今まで嫌い嫌いって言ってたコンテンツにハマってしまいました」みたいなことも数知れずある。好きと嫌いは流動的で不安定なものだと言えるのかもしれない。

好きになれない人とは距離をとる

とはいえもちろん、知れば知るほど嫌いになってしまう人もいる。自分にとってイヤなことをしてくるとかその人が存在するだけで自分がなにか損失をこうむるとかいう場合は当然好きにはなれない。

そういうときは華麗に避けることにしている。つまり、見ない。

真剣に神経質に避けると自分の中で「この人嫌い!」が強化されてしまう気がするので、軽〜い気持ちで避けるようにしている。あんまり悔しがらず、涙を飲んだりせず、ただただ軽〜い気持ちで「見ない」を選択するのがコツのように思う。

推しと苦手な人がコラボしていたらその配信は見ない。のちほど切り抜きだけサラッとチェックする。張り詰めた気持ちで全部観ていると疲れるけど、切り抜きだけサラッと見ると苦手な人も意外とイヤじゃなかったりもする。編集がうまくていい感じになっていて印象が変わることさえある。

推しも、自分も、苦手な誰かも、それぞれ別の惑星に住んでいるんだ、だから関わる必要ないし思いを馳せる必要もないんだ、という記事

苦手なものに意識を向けない練習

見なければいいって言われたってひんぱんに推しとコラボするし会話するし同じ画面に出てくるんだよ! 避けてたら推しがまったく見られないよ!

ということもあるので、最近は苦手なものから意識をずらす練習をしてみている。

私の友人で「推し以外目に入らないし、興味ない人の声も聞こえない」という人がいて、この特殊能力が会得できたら人生楽しそうだし面白そうだから真似して遊び感覚でやっている。

推しと並んでいても苦手な人に焦点が合わない。苦手な人の声にだけノイズキャンセル的なものがかかる。という感じらしい。

集中すると視野が限定されたり声かけられても気付きにくいということもあるし、ある程度は意識してコントロールできない話でもないんじゃないか。自分で実験中です。

また経験上「ファン同士でつるむと感情的にも物理的にも面倒に巻き込まれてろくなことがない」ということが多かったので、SNSとかでもファン同士つながらないようにしている。

そうすれば「誰々とのコラボおもろかった〜またやってほしい!」みたいな呟きも「やっぱ誰々嫌いだわ……」みたいな呟きも見なくてすむ。その人の存在そのものよりも、外野の声で疲れてしまうことも自分はあるから。

別の居場所や別の興味・趣味を複数つくる

こういうとき複数の推しがいたり、夢中になれる仕事や趣味があったりすると、場合に応じて重心を変えられるので気を病みにくい……というのはよく聞く話。

自分も界隈がめんどうなときはちょっと引いて別のことに夢中になったり他の居場所で楽しむようにしているけど、たしかに楽だと感じる。意識して気分転換をするようになった。

「推しは他人」ということを忘れないようにしている

ときとして、「好き」は人をおかしくする。

好きが高じて云々の話を見かけるにつけ、10代の頃の追っかけ仲間を思い出す。

「あのバンドのファン態度悪いから同じイベント出ないで」「あのハコのオーナー感じ悪いからオファー来ても断って」「あのメンバー女癖悪いから辞めさせたほうがいい」だのなんだのと、本人に言わせれば「バンドのことを考えて言いにくいことを言ってあげてる」らしかった。

その実、相手を囲い込み、コントロールしようとしていただけ。

かくしてまわりのファン友達からは疎まれ、推したちからも「厄介」の烙印をおされて軽くあしらわれ、顔を見なくなったと思ったら別の界隈で同じようなことをしていたらしかった。

推しに対して厄介な気持ちがわいてきたら、彼女のことを思い出すとすぐに「いや、ああはなりたくないな……」と冷静になれる。執着の限りを尽くして引っかき回して泣き喚いて愚痴や暴言を言って、他に居場所ができればケロッとして砂をかけて去って行く。そんなファンにはなるまいと思わせてくれる。

今は、気楽に細く長く誰かを推すことも楽しいし、件の彼女には反面教師として「何かを推す上でのいい距離感を教えてもらった」と思うようにしている。

とはいえ、今もぜんぜん「うわーこの人とコラボすんのかー! なんか嫌いなんだよなー……」ということはたくさんあり、そういうときの自分のためにもこの記事を書いておきました。

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