推しをけなされてイヤな気持ちになったけど、どう考えたら楽になるのか

推しの悪口言われてイヤな気持ちになった……どこのジャンルに行ってもこういうことってあるよなあ。いったいどんなふうに考えたら平穏に生きられるんだろう……

と悩んでいる人向け【私もまだできてないけど、自分と他人を切り離して考える練習をしてみるといいらしい。】という話。

大前提として、好きなものをけなしたりけなされたりっていうのが無いほうがそりゃあいいのだけど、人間の中で生きている限り難しい。しかも今はSNSがあるのでよけいに。自分もたまにイヤな気持ちになったりするし、もしかしたら無意識で何かをけなして誰かをイヤな気持ちにさせているかもしれない。そういうときにどう考えたら気持ちをフラットに保てるのか……と悩んだときの覚え書きです。

推しを悪く言われたとき、長く引きずる人と引きずらない人

最近、同じ作品内で別キャラ推しの人から私の推しの悪口を言われたことがあった。

ほどほどに長くオタクとして生きてきて、どうやらこの世には「自分の好きなものをけなされると気持ちがかなり揺れて長く引きずってしまう人」と「一瞬はムッとしても『まあ好みってあるし』とすぐに切り替えられる人」がいるんじゃないかという気がしている。この違いはなんなのか。

自分は前者で、小学生の頃から「そんなアニメ好きなの〜?笑」とか「えー、そのキャラかっこよくないじゃん」みたいに言われるたび、なんとも言えないイヤな気持ちを抱いては長々と引きずっていた。好きなはずのアニメを見るたびイヤな気持ちがよみがえって楽しめなくなったりした。

今でもそれは変わっていなくて、好きなものをけなされるとイヤな気持ちを長く引きずってしまう。好きなものを純粋に楽しめなくなってしまい、相手に対する遺恨も深く残ってしまうほうだと思う。相手のことがイヤになるのはもちろん、相手の推しのことまでイヤになってしまうこともある。我ながら度量が狭いなと感じているし自分もしんどい。とっくの前から気づいているのに、なかなか直らない悩みのタネなのだ。

ふとそんな自分にうんざりして、改めて考えてみた。

「私はこの年になってもまだそういうの気にしてしまうんだな、こんなに長年同じ悩みを抱え込んできたということは、私の考え方のクセのせいなのかもしれない。考え方を変えてみればいいのかもしれない……」

と思ったので、整理してみることにした。

自分が好きなものをけなされることで、自分のことまで否定されたような気がしてしまう

言語化してみると「自分が好きなものをけなされることで、自分の中の何か重大なものが傷ついた&損なわれた気がしてしまう」という感じ。自分のことまで悪く言われたような、自分のことまで否定されたような気になる……こともあるかも。

文章にしてみるともうすでに「わざわざ事実よりも盛って受け止めて、よけいに傷ついているんだな私は。いらんことしてるじゃん」ということが分かる。

これはよけいな苦しみだから取り除いていきたいと思って自分でもいろいろ本を読んだり、心理職の友人に話をきいてみたり、「こう考えたらいいらしいよな」というものはいくつか見つけてはきたけど、今のところ全部きれいにすっきり解決できていない。

でも、「多分、解決のキモはこのへんなんだよな〜」みたいなアタリはついているので、覚え書き的に書いておく。

自分も他人も推しもそれぞれ別の存在である

いったん自分が行き着いた解決方法は「自分と他人は別の存在だし、自分の推しもまた別の存在だから、すべてを切り離して考える練習をする」ということだった。

自分の中に推しを取り込まない

自分も、他人も、自分の推しも、他人の推しも、別ジャンルのオタクの人も、オタク以外の人も、多少の情緒的なつながりがあるだけでそれぞれ別の存在だ。それぞれ別の惑星に存在していて別のシステムで生きている。全てがスタンドアローンならば、他の存在にトラブルがあっても自分には影響を及ぼさない。(もちろん、推しがけなされれば一瞬ムッと来るくらいはあるだろうけど)

「まあ好みってあるし」「そういう人もいるんだね」「人の好みを攻撃するのはカッコ悪いな、自分はしないようにしよっと」くらいに考えて長く引きずらない人は、このへんをちゃんと切り離して考えられているのではないか。

が、自分の中に推しを半ば取り込んでしまっている場合、"推しへの攻撃=自分の一部を攻撃されていること"になってしまい、ことが重大になる。

別の存在(自分の推し)への攻撃まで自分への攻撃として受け取ってしまい、さらにその痛みから自分を防衛しようとするので、防衛本能が激しい怒りや悲しみ、反撃行動になったりもする。

これがこじれると、同じ好き嫌いの者同士でファン軍とアンチ軍となっていさかいに発展してしまう……なんてのもよく見る。

推しに限らず、たとえば出身地をけなされるとカッとしたりするのも、出身地という属性を自分のアイデンティティの一つとして大切に意識しているから起こることなのだろう。

自分の好きなものをけなされてカッとしたら、自分も自分の推しも他人も、全部それぞれ別の存在なんだというのを思い出す練習をしてみている。具体的には頭の中で、それぞれが別の惑星でそれぞれが干渉できないくらい遠くに浮かんでいるイメージをしてみている。ポイントは、「自分と他人はもちろん、自分と自分の推しもまた別の存在である」という部分だと思う。

人の好きなものをけなす行為もまた、自分と他人を分けて考えられていない

それはそれとして、人が好きなものや人の属性をわざわざ聞こえるようにけなす必要はないよね……と私の中の善のオタクがきれいにまとめようとすると、「は? 好き嫌いを口に出すこともダメなの? 全肯定しろってか? 自分のTwitterで言うのもだめなの? 『嫌い』くらい言わせてよ。はー窮屈ですねー」と私の中のやっかいなほうのオタクが顔を出してくる。

考えてみたんだけど、何か他の存在を「嫌い」「許せない」「けなしたい」というのもまた、自分と他人を切り離して考えていないからこその衝動なんじゃないか。(自分を省みるに)

わざわざ気力を消費して何かを嫌って悪く言うことって、それ自体がそこそこしんどいし楽しいことでもない。なのになぜわざわざ嫌いなものの話をするのかというと、「嫌いなもの」としてこれまた自分の中に抱え込んでいるのではないかと思う。(自分を省みるに)

だって、別の惑星の話ならそんなに熱心にけなす必要も嫌う必要もない。

「イヤなら見るな」ってネットでもよく言われる言葉としてあるけど、人の心理としてそれは難しいのだと思う。「イヤ」と感じている時点で、それを近くに置いて情緒的なつながりを持ってしまっているからだ。

できるとすれば「イヤと思わないうちに目を逸らして、遠くの惑星の存在のままでいよう」くらいだと思う。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い現象もまた……

あと、同じジャンルの中でイヤな人がいると、その人の推しキャラまで嫌いになっちゃうからイヤなんだよな……とここまで考えて、これもまたそれぞれの存在を切り離して考えられていないがゆえの苦悩だなと思い至った。

イヤな人がいたとしてその人とその人の推しキャラには何の因果もないのに、自分も、他人も、誰かの推しもまた別々の独立した存在であるのに、勝手に結びつけて「嫌い」を増やしてしまっていることになる。

これもこれで楽に息のできる範囲が狭くなり、生きづらい。

でも「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があるくらいだもの、理屈では分かっても人情としてはなかなか割り切れないものなのだと思う。

推し以外見えない友人

「推しを見るのに忙しすぎて、琴線に触れないキャラは目にも入ってこない。だから悪口も一切言わない」みたいな友人がいる。

最初は「そういうふうに考えるようにしているってことか、すごいなあ」と思っていたのだけど、本当に「推し以外に興味がない、悪口を言うほど興味がない」ということのようだった。

たとえば私は「推しと苦手な人がコラボして、推しは見たいのに苦手な人が気になってコラボを楽しめない」みたいなことがある。「せめてコラボ中はがんばって苦手な人のことも好意的に見るようにしよう」みたいにがんばってドッと疲れてしまうのがせいぜい。

彼女は違う。推しの隣に嫌いな存在があろうがその嫌いな存在が推しに絡んでこようが認識しない。「そういえばなんか言ってたね」くらいな感じ。NPCみたいな感覚なのかもしれない。

あと私は「YouTubeのおすすめ動画やpixivの新着に苦手なジャンルの作品が出てくると、目に入るだけでもイヤ」みたいなこともあったりする。

彼女は違う。観たいものだけに焦点が合う。苦手なジャンルのサムネは模様くらいにしか認識していないのかもしれない。

たぶん彼女は「自分は自分、他人は他人、推しは推し」とはっきり切り離しているタイプなのだろう。

とは言え、自分の好きなものをけなされるのはイヤです

推しがけなされたらイヤだし、けなした相手には腹が立つ。推しがけなされて「ふーん、自分は自分、他人は他人だし。ま、いいんじゃない?」ときれいに割り切ることは一生できそうにないし「気にしないことが立派であり、人としてそうあるべきだ」というふうに思っているわけでもない。

ただただ、イヤな気分を長引かせないために、自分の平穏のために気持ちを切り替えたい。そのコツを会得したい。それだけ。

そのために「自分と他人を切り離して考える」というのは助けになりそうだと思っているし、これをうまく使いこなしていくとイヤなこと全般に応用できる気もしている。

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