自分で調べないで何でもかんでも人に聞くやつなんなの!? どうやったらそんな人間に育つの??
転載されたとき『自分は絵が描けないから描ける人が描いてくれるべき』って謎の言い訳されたんだけど、どういう神経してるの??
と疑問に思っている人向け【思えば小学生の教育システムってそんな感じだったよなあ……】と考えてみた話。
自分では調べずに何でもかんでも人に聞いて済まそうとする人って、どこに行っても一定数存在するように思う。私自身は人の手をわずらわせることに対して過剰に申し訳ないと感じてしまうタイプなので、できる限り自分で調べたい。むしろ「分からないならさっさと聞いて!」と注意されたことも過去あって、これはこれで良くないので気をつけている。
そんな性分だというのもあって、何でもかんでも人に聞いて済まそうとする人の心理がまったく分からなかった。自分で調べたほうが心理的負担もないし、納得できるまで自分のペースで時間もかけられるし、理解が遅いことで相手をイライラさせることもないし、よっぽどラクなのに……単に私のコミュ力が低いだけなのか? とさえ思っていた。
ずっと理解不能だったわけだけど、ふと「そういえば小学生のときって『分からない人は隣の人に聞きなさい、分かる人は教えてあげなさい』みたいな感じだったよな……? 大元はアレなんじゃないのか?」と思い至ったので書き残しておく。
『分からない人は隣の人に聞きなさい』システム
(自分が通っていた&勤務していたのは田舎の公立小学校で、しかもだいぶ前のこと。都会や私立ならまた事情が違うのかもしれないけどそれは分かりません。)
小学1年生のときに担任の先生から「隣の席の田中くん(仮名)の面倒を見てあげてね」と言われたのをはっきりと覚えている。子どもながらに「同い年なのに……?」と違和感をおぼえたからだ。先生は田中くんに対しても「分からなかったら○○さん(私)に聞きなさい」と言っていた。
今思えば私と田中くんに限らず「ちゃっちゃと要領よくできる子ども」と「何をしていいか分からなくなっちゃう子ども」(小学1、2年くらいだとまだこのあたりの個人差も大きい)がうまいこと配置されていて、これは授業をスムーズに進めるための工夫だったのだろうと思う。クラスに40人もいれば一人の教師で全員を見ることは不可能だし。そこで児童間の互助システムに頼ることになる。一見何も悪いことはなさそうに見えるし、むしろ「協力し合うことで助け合いの気持ちを学べるし、みんなで一緒にペースを揃えられて遅れる子も出ないし、良いことだ」と思えなくもない。
自分が小学生の頃は気づかなかったのだけど、大人になって教師側になり小学一年生を受け持っていたとき「このシステムを小さい子どもに適用する場合、ちょっと注意が必要なのでは……?」と感じるようになった。
比較的要領のいい子どもでもしょせんは子ども。理解度に合わせてヒントを出しつつ自力で解けるよう導く教え方などできるわけはなく、答えを丸教えして終わり。教わる側の子どもは当然何も身につかない。
ここで、「答えを教えてもらうのはつまらない! 遅くなっても自分で解きたいから自分で考えさせてほしい!」と思うタイプと「勉強というのは分かる人が全部教えてくれるものなんだ、はーラクチン」と思うタイプに分かれるのではないか。
自分の体感としては、前者がほとんどだと感じていた。
ただ、どういう違いなのか分からないけど後者のように全部聞いて済ませようとしてしまう子どももいた。「ほらー、早く教えなよ。でないとクラスのみんなに迷惑かかっちゃうじゃん。怒られたらお前のせいだよ?」みたいな態度が見て取れたこともあった。照れとかプライドによる態度なのかもしれないけどそれは分からない。
また、遅い子がモタモタしてクラス全員が待たされる感じになると「何やってんの? 同じ班の人が早く教えてあげればいいのに……なんでまわりの子がフォローしてあげないの?」みたいな、一種、連帯責任のような圧を感じたこともあった。もしかしたら、遅れることでクラスに迷惑をかけるのが怖いがゆえに人に聞いて早く済ませたがる子もいるのかもしれない。
「分かる人が分からない人に教えてあげるのは当たり前で、そうすべき。さもなくば全体の不利益になるんだから、分かるくせに教えない人は悪」もしそんな曲解ノブレスオブリージュみたいな考え方のまま歳を重ね、どこかの会社に入ったら、悪びれもせずExcelの使い方を一から十まで聞いてくる大人になったとしてもなにも不思議ではない。
もしかして「自分では調べずに何でもかんでも人に聞いて済まそうとする人」の発生源ってここなのでは……? 「調べる」=「誰か分かる人に頼って一から十まで聞いて済ませること」だと思っているのでは……? と自分は感じた。
隣の席の田中くん(仮名)はそんなタイプの人ではなく、何かを教わるときいつもきまりわるそうな顔をしていたし時間ギリギリまで自力でがんばろうとしていた。だから私も「私なんかに教わるのイヤなんじゃないかな? 自分でやりたいんじゃないかな?」と遠慮して、おせっかいは焼かなかった。
子どもだって子どもなりにちゃんと考えているし、その上で助け合うこともでき、それでも自力でがんばりたい子どももいる。あたたかく待って見守れるような余裕があるなら、分からないことを教え合うのはいいシステムだと思う。
でも「分からなければ分かる人に一から十まで聞けばいいんだ」「自分でちんたらやってたら全体に迷惑かかっちゃうもんね。他の誰かできる人がサッとやってくれるべきだよ」というラクチンな手段をひとたび良しとしてしまうと、「いや、やっぱり自分でもできるように努力すべきだ。最初は遅くなって迷惑をかけるかもしれないし恥もかくだろうけど、自分でできるようになりたい」と思うのってなかなか難しいのではないか。しかも「こんなこと聞くの恥ずかしい」とか「何でもかんでも人に聞いて相手の時間を奪ってしまうのは申し訳ない」とかいう些細な抵抗があったとしても、"集団全体の利益のため"という名目のもと正当化できてしまう。
何でもかんでも人に聞くくせになんでそんなに偉そうなの??? みたいな人ってけっこう多いけど、そういった正当化の心理が働いているのだと思えば納得できた。
これだと「分かる人」にしわよせが来るだけでなく、当然とばかりに寄りかかられているようでなんかムッとしてしまう。自分の場合、人に教えること自体がイヤなわけじゃなくてこのあたりがイヤに感じるんだと思う。
「絵が描ける人が描いてくれればいいじゃん」
絵を転載して「私は絵が描けないんだからしょうがないでしょ?」と言っている人をたまに見かけたことがある。あと、仕事としてお金をとってアイコンなどを描いている人に対して「お金取るなんてひどい! 私は絵が描けないんだから描ける人が描いてくれるべきでは?」と言うとか、そういう風潮も一昔前はかなり強かった印象がある。
この「できるひとがやってくれればいいじゃん」という謎の考えに対して長らく「どういう考え方したらそうなるんだろう????」と疑問しかなかったけど、同じく上の曲解ノブレスオブリージュに起因するとしたらなるほどなと思えた。
※図工の時間に、田中くん(仮名)が鳥を描けず筆が止まっていて担任が私に「描いてあげなさい」と言ったことがあった。しかしお互いに遠慮があったので私は別の紙に「……鳥……こんな……の、とか……(ボソボソ)」と描いて、田中くんはそれを見て、自分で描けなかった羽の部分だけを参考にして描いてくれたようだった。なので「得意な人が描いてくれるべき」みたいに開き直る人のほうがレアだと思っています。
「ggrks(ググれカス)」も今となってはどうなんだ
何でもかんでも聞いてくる人に対して放たれる、自分でネットで調べろよという意味の「ggrks(ググれカス)」という言葉がある。当時は「ggrks」と掲示板を追い出されたらぐぬぬとなりながらもみんなネット検索して調べるしかなかった。
一昔前は、ネット検索で情報を集めるにもコツとか慣れが必要だったように思う。断片的でぶっきらぼうで親切とは言えないような情報のかけらをたくさん集めて、それを自分の中で分別して、合成して、最終的に自分で考えてまとめて判断するまでが「ググる」だった。
今は検索すると"ですます口調"で語りかけて噛んで含めるように「教えて」くれるものが多い。
ネット検索で上位に出てくるのがそんなウェブサイトばかりだと、情報を精査もせず組み直しもせず「誰かがこう言ってたからこう」になってしまう。ネットで検索するのも、知恵袋で質問を投稿するのも、見ず知らずの人のマシュマロで聞くのも、全部同じ「調べる=分かる人に聞く」になってしまっているのかもしれない。
自分は古のインターネット世代の人間だからどうしても昔の方が良かったというバイアスがかかってしまうので、どっちがいいかというのは言えない。
「調べる力」ってどこで培われていくんでしょうね
「自分で調べる力」って、人生のどの時点でどんなふうに身につくのだろう。
上でも書いたけど「調べる」っていうのは、
- 情報をできるだけたくさん集めて
- 基本的にはまず全部疑って
- その中で取捨選択して
- 自分で考えてまとめて、裏を取るなら取って
- 自分なりに判断を下す
という、かなり込み入った工程をこなさなければならない。
一昔前のネット検索では当たり前のように強いられたこの工程で、自分は少しは「調べる力」を身につけられた気がする。
いろいろネットも便利になってつい鵜呑みにしがちだけど、情報を疑いながらできるだけたくさん集めて分別するクセは持ち続けようと考えている。