反応を気にしたりいいねの数で一喜一憂するんじゃなくて、自分のために絵を描けばいいんだよ!
って言われても……『自分のために絵を描く』っていったいどういうこと?
という人向け【自分のために絵を描くというのは"頭の中に思い描いたものを出力することを楽しむこと"なのかも?】と考えてみた記事。
「SNSで自分の絵が評価されない」みたいな悩みに対して、「あなたは何のために絵を描いているの? 誰かの評価を気にするよりも、自分のために描けばいいんだよ!」みたいに言われがち。
ド正論ぽいし、もうそれ以上何も言えなくなってしまう。
「自分のために描く!」ってどうもきれいな言葉に収まりすぎてしまって自分にはあまりしっくりこなかったので、具体的にどういうことなのかを考えてみた記事。
自分のために絵を描くってどういうことだろう
「あなたはそもそも何のために絵を描いているの? 自分のためでしょ?」と諭されたって、「自分のため」にもいろいろあるし人それぞれ違う。
もっと上手く描きたい、もっとたくさんみてほしい、いいねがほしい、上手い人に認めてほしい、ジャンル内でひとかどの絵描きになりたい、絵描きとして成長したい、あわよくばプロになりたい……などなど人によって違うだろうし、それらも全部突き詰めれば「自分のため」。
それを「自分のために描く」ときれいな言葉でくくってしまうと、よけい見えてこないし混乱してしまう。
思えば受験勉強も「自分のためにがんばれ」と言われてがんばらなきゃいけなかったけど、あの頃は混乱してたなあと思う。
「僕の考えた最強の○○」を描き留めたい
子どもの頃、絵を描き始めた頃のことを思い出してみると、「自分の頭の中のこれをどうにか形にして現したい」という衝動があった。
いわゆる「僕の考えた最強の○○」を思い浮かぶままに形にする工程が楽しくて絵を描いていた。
○○は超人だったりロボットだったり学園だったり異能力だったりファンタジー世界だったり、いろいろなジャンルを通ったけれど、稚拙であろうが設定が甘かろうが体裁など無視して思いのままに、とにかく形にしたかった。
それは誰に見せるでもなく、自分の中の純粋なワクワクだった。
ネットもない時代だし、友だちと交換するわけでもないし、大人に褒めてもらいたいわけでもないし、漫画家やイラストレーターになりたいわけでもなかった。子どもの頃だって「もっと見栄えのいい絵を描きたい」とか「もっと上手くなりたい」とか思わないこともなかったが、それはあくまでも「僕の考えた最強の○○」をより自分の思い通りに出力するためだった。
「際限なく頭に思い浮かんでくるこのワクワクを形にして描き留めたい」ということに夢中だった。あれが私の中では原初の「自分のために描く」だったのかもしれない。
描きたいワクワクがなかなか頭に浮かんでこなくなった
しかしある程度そつなく絵を描けるようになると「絵は描きたいけど描きたいものが浮かんでこない」という状態が訪れ、そのくせ「上手く描かなきゃ」「評価されたい」という欲求が出てき始めた。
「描きたい」ではなく「描かなきゃ」と気ばかり焦るのに描きたいものがない。衝動を伴わないまま絵を描く。そのくせまわりの反応は気になる……という悪循環に入ってイヤになってしまった。
どうして「絵は描きたいけど描きたいものが浮かんでこない」状態になってしまったんだろう。
子どもの頃はまだ世界が広がり始めて間がないから、一つアニメを観れば「これは世界一最高に面白い!」と夢中になれたし、一つマンガを読めば「すごい! こんなの初めてだ!」とどハマりできた。「僕の考えた最強の○○」もどんどん湧いてきた。(今思えばこれが二次創作の始まりだった)
けど、大人になるにつれ何百何千という作品に触れていく。特に近頃はネット上にコンテンツが無限にあり目先の変わった作品や斬新な切り口の作品も次から次へと出てきて、何かに新鮮にハマることが難しくなった。
自分の場合は面白いものをキャッチするアンテナを磨いていないので錆びているというのもあるかもしれない。
また、積極的にいろんな作品を摂取していくほうでもない(選り好みをする)ため、5年に一度くらいどハマりする作品に出会うか出会わないか……くらいになってきて、当然、二次創作するにも湧き出すものがない。
「僕の考えた最強の○○」を思いつくこともワクワクして描き留めることも少なくなった。
描きたいものがたまるまで待ってみる
「絵は描きたいけど描きたいものが浮かんでこない」状態がダラダラと続いてしまうと最初は焦っていた。もう二度と絵を描きたいと思えないかもしれないと感じていた。
しかし他の人の作品ばかりみているとじわじわとだけれど「自分ならもっとこう描きたい」「あれをこうしたらもっと自分好みだな」みたいに、フラストレーションというか解釈違いメーターというか「俺も描きたい欲」は着実にたまっていく。
そして5年に一度くらいビッグウェーブが来て、またひとたび「僕の考えた最強の○○」を描きたくなって描く。このビッグウェーブ時は夢中で自分が楽しむために絵を描けているように思う。「あーこれこれ、これが絵を描く楽しさだった」と、自分のために絵を描く楽しさを感じられている。
絵を描くことを一生の趣味にしたいから、数年に一度情熱がぶり返すような、こんな描き方でもいいじゃないかと今は考えている。
「俺も描きたい欲」をせっせとためる
「描きたいものが湧いてくるまで波を待つなんて、そんな悠長なことはしていられない!」「常に何か描いていないとまわりから忘れられてしまう!」「早くやる気を取り戻してたくさん描いて、早くうまくならなきゃいけないんだ!」と、10代の自分ならきっと口を尖らせてそう言っただろう。
だったら、「俺も描きたい欲」をもっと早くためればよいのかもしれない。
たくさんの作品に貪欲に触れ、アンテナを錆びつかせないようていねいに感じ続けることで「俺も描きたい欲」がたまるスピードも上がるのでは、と考えている。自分はできなかったけど。
「俺も描きたい欲」って生活に直接必要ではない欲なので、どうしても二の次になっていく。気力、体力、時間、お金などの状況がある程度整っていないと、たまるスピードはゆるやかになってくるのではないか。
「自分のために描く」ってこういうことなのかな
「自分のために描こう(キラキラ)」と言ってしまうときれいな言葉でまとまってしまい、具体的にどういうことなのか私にはピンとこなかった。
私の考える「自分のために描く」というのは、
- 「僕の考えた最強の○○」をワクワクしながら形にすること
- ○○が浮かんでこない時期は人の作品をひたすら摂取して「俺も描きたい欲」を溜める
- 人の作品をたくさん摂取するほど描きたい欲の溜まるスピードは上がるのかも
こんな感じでした。
あと、以前のジャンルの絵を見返してみると「ああ、この頃の自分はこういうシチュエーションが好きだったよなあ」「あーこの背景がんばってるなあ」とほっこりすることも増えてきた。
日記もそうだけど、今の自分の気持ちを書き留めて整理できる&未来の自分が振り返って参考にできて助かる、という、記録することの良さってある。これもまた「自分のために描いている」ということかもしれない。