ジャンルの大手と解釈違い。毎日解釈違いの二次創作が流れてきてみんなもそれをチヤホヤしていて、ジャンルに居づらくてしんどい……
という人向け【自分の見たいものだけ見て、フォローしたいものだけフォローし、描きたいものを淡々と描き続けていたら解釈の合う人とも出会えた。】という記事。
ジャンルの大手さんも自分の好きなことを好きなように描いているだけなのだけど、ジャンル民にやたらチヤホヤ持ち上げられることでアンチが生まれることがある。
自分が前にいたジャンルでは、大手の解釈がジャンル民の中で準公式みたいな扱いになっていた。しかもそれが解釈違いだったため、イヤでイヤでしょうがなかった。苦痛だった。自分にとって神は公式のみであるのに、敵対勢力によってもう一つの神がでっち上げられて、自由を封じられたような感覚があった。
そういうときに自分がどう行動していたか、今思い出すとなかなかよくがんばったと思うので記事にしてみる。
解釈違いの大手がイヤだったとき、自分がやっていたこと
自分が描きたいことを描き続けた
自分はジャンルにハマり始めてまだ日が浅かったこともあり、描きたいことがたくさんあった。だから自分が描きたいことを描き続けた。
「描きたいことを描く」。二次創作って本来これだけでいいのだと思う。
まわりが大手の解釈違いの作品をRTしてもてはやしていようが、大手のことを「もはや公式様です! 供給ありがとうございます(泣いてる絵文字)」とあがめたてまつっていようが、私の神はそれじゃない。
今思うと「なぜそんなに心を強く持っていられたんだろう?」と自分でも不思議なのだけど、やっぱり「ジャンルにハマりたてで、とにかく自分の描きたいことがたくさんあった」というのが大きい。
上で「敵対勢力によってもう一つの神がでっち上げられて、自由を封じられたような感覚があった。」と書いたけど、実際は誰も私の創作を制限していないし、私が勝手にやりにくさを感じていただけ、と気づいたことはよかった。
ほとんどの場合、同調圧力も自分が感じるから存在するのであって、感じなければ存在しない。
好きな人だけフォローし、好きなツイートにだけいいねする
好きだなと思う人だけフォローして、いいねと思ったツイートにだけいいねしていた。
当たり前じゃんという感じだけど、意外と義理フォローや義理いいねをして自分にダメージが溜まっていくことってある気がする。
ジャンルの大手だろうが見たくないものはフォローしないし、いくらRTが回ってこようが「いいね」と思わなければいいねもしない。
解釈違いの大手がイヤだったとき、自分がやらなかったこと
大手発案のイベントやハッシュタグには乗らなかった
大手さんは「こんなタグを作ったのでよかったら使ってください!」とハッシュタグを提案したり、「○○(キャラ名)の記念日お祝い企画やります!」みたいなイベントをやったりもしていた。
でも自分は一切乗らなかった。
反発というよりは、解釈違いの人と関わる必要がないし、単純にイベントごとに参加するのがめんどうだし、二次創作で大々的にやってどこにどう迷惑がかかるか分からなかったため。
また、個人の提案したハッシュタグやイベントに乗ることで「私もこの人たちの仲間ですよ」みたいな感じになるのがイヤだった。どこの勢力にも属したくなかった。
見たくないものはフォローしない。けどミュートやブロックもしなかった
目ざわり度合いにもよるとけど「もーほんとこの人嫌い! 目ざわり! ひとかけらもこの人の情報を見たくない!」ってミュートやブロックすると、自分の場合、逆によくなかった。
嫌いなものに対しては敏感になってしまう。『動物のお医者さん』の二階堂くんが、他の誰も見つけられなかったネズミを見つけて失神してしまうみたいに。
もちろん「嫌いですアピール」みたいなこともしなかった
「ああいう絵は私は描きたくないんだよね」とか「そういうやり方ってどうかと思うわ……」とか、いわゆるエアリプみたいな「嫌いですアピール」も一切しなかった。
これはまわりがどうというよりも、自分の中にモヤモヤが溜まって「私はこの人が嫌いなんだ」という気持ちが強化されてしまう気がしたから。
自分の描きたいことを描いていれば、解釈の合う人と出会える
結果として、今も自由に二次創作をすることができていると思う。
「大手にスジを通しとかないとこのシマではやっていけないのでは……」みたいなのってつい感じてしまうけど、そんなことばかりでもなかった。
「まず自分が描きたいことを描く」というのが第一で、これさえ楽しめればいい。
別に、大手を追い落としてこのジャンルの新たな神になりたいとかではないのだし。
中学のとき「みんなで机を合わせてお弁当食べよう」みたいなリーダーっぽい子が苦手でいつも一人で食べていたけど、それでも友達はできた。
SNSでも、自分の好きに描き続けることで解釈の合う人と出会えた。
集団に迎合しなくても、必ず自分に合う人はいる。これだけは信じることができています。