「絵が下手なくせに自分では上手いと思っている人がいて、腹が立ちます。下手なくせに上手いと思ってる人って、どういう思考回路なんでしょう? どう考えればイライラしなくて済みますか?
という人向け、「絵が下手なのに上手いと思っている人の思考回路」について、『感受性音痴』の理屈で説明してみた記事。
※こういう問題ってそもそも「どこまでが上手いのか下手なのか」からしてハッキリしないので、あくまでも「"自分の絵が上手いと思い込んでる人"に腹が立ってしまってつらい」という相談に対してシンプルに回答しています。
※また、誰でも少なからず自分の絵を正確に見られていない部分はあると思うので、そこらへんについても書いてみました。
「絵が下手なのに自分では上手いと思っている人」に起こっていること
『感受性音痴』と同じ理屈で説明がつくかもしれません
「絵が下手なのに自分では上手いと思っている」というのって、現象としては『感受性音痴』と同じ理屈で説明できるかもしれない。
歌の下手な、いわゆる音痴と言われるものには二種類ある。
『運動性音痴』…適切に体が使えないために、出したい音が出せない
『感受性音痴』…そもそも正しい音階が聴き取れない
この『感受性音痴』は、生育過程で正しい音階に触れる機会が少なく、音階を正しく聞き取れないために起こる。
当然、自分の音階がずれていることにも気付けない。自分では普通に歌えているつもりでいる。
(具体的には、歌へた王に出場するみなさんのような歌唱になることが多いかも?)
ちなみに、『感受性音痴』を矯正するには正しい音階を根気強く聴かせ続けることだそう。それでも『運動性音痴』に比べると時間がかかるとされている。
自分の中の「上手い絵」の基準がまだあやふやである
絵で言うとつまり、今まで「上手い絵」に触れて来なかったために自分の中の「上手い絵」の基準がまだあやふやな状態であり、自分の絵が(一般的に言えば)下手であるということに気付けていない状態。
例えば小中学生くらいだとまだ経験の絶対量が少なく、「上手い絵」というのがどういうものかが分からないので、拙い絵を堂々と描いて恥ずかしげもなく人に見せ、大人たちからお世辞を言われてドヤ顔をしている。(私が子どもの頃そうでした。)
子どもに限らず、ある程度長いこと生きていて長いこと絵を描いていても、
- 他人の絵に興味がなく、見ようとしない
- 一つの作品や一人の作家の絵しか知らない、興味を持たない
- 他人の絵を上手いと思えないので参考にしない
という場合も「上手い絵」の基準が成長しないので、『感受性絵下手』のまま止まってしまう。
これでは年齢を重ねても、何年かけて練習しても、自分の拙さに気づけないので上達は望めない。
もちろん描くこと・歌うこと自体が楽しいなら全く問題はないけれど、もし『感受性絵下手』を脱却したいという場合には、たくさんのインプットが大事になってくるのでしょう。
「絵が下手なのに自分では上手いと思っている人」になぜイライラしてしまうのか
メカニズム的にはなんとなく分かったものの、ではなぜイライラしてしまうのだろうか。
「昔の自分みたいで恥ずかしい!」という共感性羞恥
これは自分の経験なんだけど、昔の自分が下手なくせにドヤ顔してた頃のことを思い出してしまう、というのはあるかも。
「ひえー! たいした絵でもないのにメイキング公開なんてあとから恥ずかしいからやめときなって! 『適当にガーッと塗る。センスで。』じゃないよ! 恥ずかしい! うわー見てられない!(指のすきまから見ちゃう)」みたいな感じ。
共感性羞恥がマックス超えるとそこからスリップダメージが入り始めてしまうので、その前に、
- いやな予感がしたらさっと目をそらす
- 昔の自分を見つめるつもりで冷静に添削してみる
- 「今だったら私はこう描く!」と描いてみる
みたいなことをやっています。
「努力すべき」と他人をコントロールしようとしてしまっている
よく「怒りやイライラを感じないためには、他人をコントロールしようとしないこと」と言われる。
「すべての人間はもっと努力すべき」とか「下手なくせにドヤ顔するべきじゃない」とか一生懸命念じたところで他人はコントロールできないので、これではイライラしてしまう。
「他人の課題は他人のもの。やるかやらないか、できるかできないかははその人しだい」と、自分は意識して割り切るようにしている。
また「私は努力して乗り越えてきたんだからこの人だってやればできるはず、なのに努力しないのは甘え」と思ってしまう人もいるのかもしれない。
でもそれって、自分のがんばりを過小評価しすぎかも。
努力って誰にでもできることではないし、努力の末に結果を出すことはさらにたいへんなこと。
「私だってできたんだから」じゃない、「あなたががんばったからできた」んです。
"下手なくせに"自分の利益を害してくるかもしれないから
あとは、下手な絵にいいねがついているとムカッとする、という愚痴?も聞いたことがある。
"下手なくせに"いいねを横取りしてくる、利益を害してくる、という、恐れのようなものを感じるのかもしれない。
本来いいねって「誰かに取られる」みたいなものじゃないのに、評価に心が依存してしまっている人にとってはいいねは有限で貴重で、他人には一つも分けてやりたくない、死守しなければならないものに思えるのだそうだ。なんとなくだけど、わかる気がする。
「努力し続けなければダメな子になってしまう」という呪い
「私はこんなに努力している(努力しようとしている)のに、まだ下手で全然ダメ! こんなに絵が下手なんて恥ずかしくて消えてなくなりたい! なのにこの人はのうのうと努力もせず、下手な絵を描いている!」と思うと、憎くもなるのかもしれない。
ただ、他人に対してそんなに腹が立つのって、何かよろしくない思考のクセが作用してしまっている。
たぶんそういう生真面目な人って「あなたは努力家で良い子!」と小さい頃から褒められて育ったような人なんじゃないかと思う。(私もそうだった)
でもこれ、褒められているようでずっと呪いをかけ続けられていたのだ。
「あなたは努力家で良い子!(=努力しない人間はダメな子! 努力し続けろ。そうでなきゃお前はダメな子だぞ!)」
えらいえらいと一見ずっと褒められてきたのに、
「褒められるためには努力し続けなきゃ! でないと私はダメな子になってしまう!」
と、心のどこかでビクビクしてきたんじゃないだろうか?
だから、努力してない(ように見える)人がいると心が激しくざわめいてしまう。
「こいつは努力していないからダメな子だ、絶対に絶対にこうはなりたくない……!」と感じるので、心が全力でその人の存在を否定してしまう。それが怒りや苛立ちになる。
「あっぶねー呪われてたー! 努力してもしなくても私は生きてるだけで良い子なんだった!」
と考え方を変えるきっかけになれば、ちょっと楽になるかもしれない。
(もちろんこれは、まわりの大人たちに悪気はない。)
その前に、「この人下手だな」と思ったらちょっと考えてみる
その前に、このブログではよく書いていることなのだけど、「この人絵が下手だな」みたいに人を批判したくなってしまったときには、自分は少し立ち止まって考えてみることにしている。
他人の芸を見て、あいつは下手だなと思ったら、そいつは自分と同じくらい。同じくらいだなと思ったら、かなり上。うまいなあと感じたら、とてつもなく先へ行っているもんだ。
古今亭志ん生
という志ん生師匠の言葉がある。
自分のことは何割増しかでよく見えてしまう、自分の得意なことは人より上手いと思ってしまう心のクセ、【自意識の肥大化】によるものだ。
また若い世代ほど【自己の特別視】が起こりやすく、「自分は他と比べて特別な力がある」と思いたがる傾向がある。(これが行きすぎると、いわゆる中二病と言われる感じになる)
なので「この人、絵が下手!」と思ったとして、その判断が正しいかどうかは分からないわけです。
それを踏まえた上で「絵が下手なのに自分では上手いと思っている人」にイライラしてしまったときは、
- 「この人はまだ経験の絶対数が足りないんだな」とシンプルに判断する。
- 今より絵が下手だった昔の自分と重ねてしまっていないか考えてみる。(重ねてしまっていたら今の自分で上書きする。)
- 他人と自分の課題を混同しないようにする。(「この人が努力しようと思えばするだろうし、いずれにせよそれは私には関係ない」と切り離す。)
- 「がんばり続けないとダメな子になってしまう」という恐怖心が自分にないか考えてみる。
こんな感じで頭を整理するといいかもしれません。
あとは、普段から意識して「まあいいや、自分のことをしよう」と視線や行動をむりやり切り替えるようにしています。むりやりでいいんです。
最近私がやっているのは、推したちのリスト(好きな動物などもよい)を作ってホームに固定しておくこと・検索履歴に推しのアカウントを残しておくこと。
Twitterに向かって邪悪な気持ちがわいてきたときにすかさず好きなものを見る、というのをくせにしたら、だんだん邪悪なことを考える時間が少なくなってきました。
"考えても仕方のないことを考えない"というスキルは、これからのSNS社会でだいぶ有用になっていくんじゃないかなと思います。