流行りの作品がTLに流れてきてウザい! 私それ一切興味ないんだけど! 自分の感性を大切にしたいから流行りに左右されたくない!
という絵描きさん向け【ちっぽけな自分の感性だけではどうしようもないので、「へぇ〜」くらいの気持ちで流行りものに接してみたらけっこうよかった】という記事。
自分は中学生くらいまで「流行りものは絶対に見ない!!! そんなくだらないものを見たら私のセンスや感性が鈍ってしまう!!!」みたいなこじらせお絵描きストだった。その後美術科受験や美大受験、デザインの仕事を経て、「私には何もないただの器。あらゆるものを吸収しまくっていかねば。とりあえずなんでも食べよう」という考え方に転じた。
とは言えまだまだ尖った部分があった20代前半の頃は素直に他のものを見て学ぶというのが苦痛だったのだけど、「へぇ〜」という魔法の言葉を教わったことでかなり楽になった。
- 「流行りのものに触れよう」と考えるようになった理由
- 軽い気持ちで流行りものにホイホイ手を出すコツについて
こんな感じのことを書いている。
「流行りに触れていこう」と考えるようになった理由
表現というものは良くも悪くも流行りに左右される。もしくは左右されまいと踏ん張りすぎることで逆に左右される。絵を描く人だけではなく、音楽をやる人からもよく聞く話だ。
たとえば山下達郎さんはフットワークが軽く新しいものに貪欲なかたで、こういったことを言っているそうだ。
流行りものに左右されないものをつくるためには、誰よりも流行りものを見聞きすることである。
また、細野晴臣さんも「中庸」についてこのように語っている。
中庸っていうのね。これは、お釈迦さまの言った一番大事な教えなんだけれども、それは、あっちにもいかずこっちにもいかず真ん中を歩くということじゃなくって、あっちとこっち、その両方を行かないと真ん中にならないよ、という教えなの。
細野晴臣『分福茶釜』平凡社ライブラリー(2015年)
こんなにすごい人たちがあれこれ吸収しまくっているのに、私のような凡人が「自分の感性だけでモノを作り上げたい! だから流行りものは見ません!」なんて、恥ずかしくて言えなくなった。
いろんなものを見聞きして初めて、自分の中心ができてくるのではないか。見聞きしたものの幅が広ければ広いほど、太い自分の軸ができるのではないか。
また、進学や就職を機会に経験が広がって世界の広さを知り、自然と謙虚になれたというのもある。
また、デザインの仕事をしたことで「流行りものを知らないと共通言語が使えなくて不便!」というのを痛烈に実感した。
「○○に出てくる大食堂みたいな雰囲気を……」
「○○のシーンの、あの"間"みたいな感じで……」
「背景に混沌さを出したいんだけど、イメージとしては○○みたいな……」
どれもこれも知らなくて、分からなくて、まだプライドの尖っていた自分は「あ〜ハイハイ、○○な感じですね〜」と分かったふりをして、焦って半泣きでレンタルビデオ屋に走っていた。(まだ今ほどオンラインの配信サービスが普及していなかった)
イメージを共有するには共通言語になるものが必要なのに、自分はカタコトも話せない赤ちゃん以下の存在だったのだ……。
流行りものへの抵抗を減らしたかったので……
でも、小さい頃から教室の中のマイノリティを貫いてすみっこで静かに絵ばっかり描いてきた日陰者の私としては、なかなか「流行ってるから私も見よ〜っと!」というノリに持っていくのは難しかった。陽の反射神経を持ち合わせていないというか、つい無意識で拒絶したくなってしまう。
なので、流行りものへの抵抗をなくすためにいろいろと試した。
「へぇ〜」くらいのテンションで気軽に乗ってみるようにした
流行りものに対して「流行りのこのすばらしい作品から何か見つけて学ぼう!」みたいに考えようとすると、どうしても抵抗感が出てくる。反発心というか。負けを認めて謙虚になるのがシャクというか。(私だけなのかもしれないけど。)
自分の場合はこれが「流行りものに触れるのがおっくう」の原因だと思ったので、ごく軽い気持ちで乗ってみるようにしてみたらけっこうよかったです。
昔の知人で「へぇ〜」が上手い人がいて、彼は何でもかんでも「へぇ〜」と言うことで吸収していた。
「へぇ〜」と発することで自分に興味を持たせている感じ。
笑顔を作ると楽しくなったり泣くと悲しくなったりと、気持ちは言動に引きずられるので、もっともらしく「へぇ〜」と言うことで興味を持っていたのだろうと思う。
これを真似してみたところたいへんよかったので、今も使い続けています。
「ああ話題のあの映画観に行ったの? そんなによかったんだ、へぇ〜」「え、今なら最新話が無料で見られるんだ、へぇ〜」
流行りもの以外でも、「あんまり興味ないなー」と感じることに「へぇ〜」と言ってみると楽しくなったりしています。
「自分は巨匠じゃない」ということをそのつど思い出した
「流行りものに影響されたくないから、流行りものを見ない」みたいに思っていた時期もあったけど、流行りものを見たからと言ってそれに影響された何かをスイッと生み出すことができるなら、もうとっくに何者かになっているよな……。
また「流行りものなんか興味ない・学ぶところなんかない」と思っていた時期もあったけど、いやいやどんな巨匠だよおまえ、と昔の自分にツッコミを入れたい。
まだ何者でもない私のような人間が、日本中を巻き込む大ヒットの作品に対して「興味ない・学ぶところがないから見ない」って、客観的に見るとなかなかこうばしくておもしろい。
流行りものを頭からを拒絶しそうになったときは「おいおい巨匠か!」とツッコミを入れるようになった。
いろんなジャンルの友達を作ったのもよかった
あとは、いろいろなジャンルに友達を持ってみるのもよかった。
友人から「今私これが好きなんだ、このキャラがこうでね……」みたいに話を聞いているうちに興味が出たりすることが多いので。
信頼できる友人が楽しそうにハマっていると、安心してそっちに行ける。
気の合う友人のおすすめってうまいことツボをついてきて、「○○にハマった人はこちらもハマっています」みたいな、高性能なリコメンド機能のようなものだと思う。
流行りものに触れるのは、真似するためではない
「ウケる絵を描くために流行りを取り入れ真似しなきゃ」と考えると抵抗感がすごいけど、そういうわけではない。
自分の真ん中を知るためというか、取捨選択するために一回食べてみる、という感じなのだと思う。
だったら「へぇ〜」くらいの軽い感覚でホイホイ口に入れた方が楽しいし、意外な出会いや発見があるかもしれないし、だから自分はそうしてみていますという話です。