「好きなアニメがあるんだけど、公式の方針に不満がある…このままだとこのアニメ自体嫌いになりそう」
「やってるソシャゲの運営が求めてない実装ばっかりしてきてうんざり。やめちゃうよ?」
といらだっている人向け【公式・運営に不満があるときってどう考えると楽になるのか】という記事。
自分は10代から20代にかけてはバンギャだった。みんながみんなそうではないけど自分の場合、愛憎の渦巻きにさらにお金が絡んで「バンドのやり方に不満が募ってもう嫌いなのに、離れられなくてお金を出し続けてしまう……」みたいなわけのわからないこともあった。
これはもはや病理では? とさすがに危機感を抱いたので、若かった自分は気持ちの落とし所を見つけようとあがいているうちに心理学やら仏教やらの考え方にたどり着いた。
心理学では「そもそもが、人間ってそういうものなんですよ」ということを教わった。
仏教では「だからこう考えると楽ですよ」ということを教わった。
10代20代で執着の限りを尽くしたせいか、年齢を重ねて今も元気にオタクをしている今、公式や運営に不満を抱いてイライラするということもあまりない。イライラする前に対処できるようになった。
これは、【何かを好きになって不満を抱き、それでも離れられずにしんどくなったらどう考えたら楽になるのか?】とあれこれ試行錯誤した個人的な苦しみの記録である。
公式・運営に不満があって嫌いになりそうで、そんな時こう考えてみた
「新キャラで新規が増えたからって、これから当分新キャラメインで行く感じ? 既存のキャラは置き去りですか?」
「メディアミックスに原作が引きずられるのは許せない、原作ファンを蔑ろにするな」
「推しの俳優・声優が私のイメージと違う役を演じるなんていやだ、それでにわかファンがつくのはもっといやだ」
みたいな感じの不満って、熱心なファンがいる限りどうしても起こると思う。
それに対して、
「私は何でもうれしいけどね〜、ま、公式の方針で楽しめない人は心が狭いんじゃない?」
「受け入れられないなら見なきゃいいのでは? not for meって言葉知ってる?」
「私はファンだからついて行くけど。できない人はとっとと降りたらいいよ^^」
という感じのことを言う人もいて、ジャンルが殺伐としてくることがある。
自分は人が対立している状態がとても苦手だから、居心地が悪くなってジャンルを離れてしまうことが多い。でもこんなふうにスッと離れられない人は、かなりしんどいと思うのだ。
「not for me だった」と考えろ……と言われるけど
最近よく言われるのが、「不満に感じるってことは not for me ってことだよ」というの。
例えば「なにこのアニメつまんないじゃん、もっとこうしろああしろ」と考えるのではなく「このアニメは自分向けに作られてなかったな(私はターゲットではなかったようだ)」と考える。幼児向けのおゆうぎ番組を大人が観ても面白くないのは大人向けに作られていないからだし、政治経済の番組を子どもが観てもつまらないのは子どもが観ることを想定していないから。
自分はターゲットではなかった、それだけのこと。
いや、たしかにそれはそうかもしれないんですけれどもさあ……。
ただどっぷりハマって今までガッツリ課金もしてきたコンテンツに対して今さら「not for me だわ」と割り切れないので、そこがしんどいんだと思う。
自分はもう今はいい年なので「もう若い人向けのコンテンツは合わなくなっても仕方ないよね」と思えたりするけど、10代から20代、お金と時間と若さと情熱を注ぎ込んだものが自分の理想から逸れていったときのむなしさや焦りは今でもありありと覚えている。
まわりの人はワイワイ楽しんでるのに自分だけ放り出されたような、なんとも寂しい感じ……。今まで自分もターゲットだったのにターゲットから外れてしまった、今まで楽しかったのに、急に無視されてしまっているような感覚になるのかもしれない。
なので自分は「not for me」という言葉を、自分のことで使うならいいけど他人に対して簡単に使うのはやめようと思っている。そもそも他人に対して使うなら「not for you」だし、それってだいぶ突き放したような、キツいニュアンスに感じるから。
一つのジャンルにどっぷり行かない
せっかく趣味で好きでいるんだからもっと楽に考えたい、それにはどうすればいいんだろう……。
好きを超えて依存してもいいけど依存先を複数持つ
「推しが好き」「推しを見ると幸せ」とかは『私は推しが好き』という自分主体の状態。
「推しが変わったり無くなったりするのが嫌だから今のままでどうにか死守したい」とかは『推しは今のままで変わらないでいてほしい』という、相手をコントロールしようとしている状態。自分以外のものはコントロールできないので、こう考えてしまうとけっこうしんどい。自分主体ではない、つまり他者の出方に依存している状態。
でも何かをそれくらい好きになって心がきりもみ状態になる経験って一度や二度はしてもいいと思うんだよね……。好きと依存はどうしても隣り合わせだし。どこまでが「好き」でどこからが「依存」かなんて微妙だし。
なのでまあ、好きを超えて依存してもいいじゃんってことにする。
ただし、依存先を一つに絞らない。
教育や福祉などの現場でも"依存しない"のではなくて"依存する先を増やす"といい、というのはよく言われることだけど、それを推しに対しても適用する。
しんどいなと感じたら、引きずられる前にちょっと避難する。もちろん"いちばんの推し"は存在していいんだけど、そこだけに依存を向けないようにするというか。みんなで全方向から全体重かけたら推しコンテンツも潰れてしまう。
視野を広く持って、いろんなところにそれぞれ推しを見つける
ということで試行錯誤してみた末に、最近は一つのジャンルだけにどっぷり行かないようにしている。
意識して広くたくさんのものを見るようにしている。話題になっているものにはとりあえず目を向けてみたり。いろんなところに「好きなもの」を見つけようとしてみている。そしてそれぞれを大事にする。
アカウントも複数に分けて、別ジャンルのことは持ち込まないようにしてみている。
これは学校でも職場でも人間関係でもなんでもそうだけど、居場所は複数ある方が安定するからだ。
10代のバンギャだった頃、自分を含めて「このバンドのこのメンバーだけ!」という子はいつも必死そうに見えたし、複数のバンドを追っかけている子のほうが気持ちに余裕があるように見えた。「好き」を楽しんでいるように見えた。
あの感じを思い出して、やってみています。
でも「推しを複数持つなんて無理!」という気持ちも分かる
とは言っても当時の自分は複数のバンドを追っかけている子に対して「あっちこっち目移りして軽薄だ!」と思ってしまっていたんだよね……。
一人の推しにのめり込めばのめり込むほど他のものに目が行かなくなりがちなのもすごく分かる。だから「視野を広く持って推しを複数持つ」というのが難しいのも分かる。
そういうときは「この世に自分のものなんてひとつもない」という呪文を使うことができる。
最後の手段の話を書きます。
「この世に自分のものなんてひとつもない」
仏教の考え方と心理学的な考えって根っこは同じで、脳科学や心理学で解き明かすような理屈の小難しい問題を「お釈迦様はこう言っている」というふうにみんなにわかりやすく説くのが仏教なんだと思う。(たぶん宗教全般がそうだと思うけど、宗教には詳しくないので言い切りません。)
心の問題を抱えたとき、脳科学で解決しようとすると難解だし、腑に落ちるまで時間がかかるので、だったら仏教で考えるといいよな、という話です。
※なので、この記事では別に宗教をおすすめしているというわけではないです。
昔、私が出会って即効性があった仏教の考え方は、
この世に自分のものなんてひとつもない。
というもの。
仏教や脳科学では「自分」というものさえも存在するのかしないのか、どこまでが「自分」なのかなんて分からない、みたいな考え方ができる。
そんな本当に存在しているのかすらあやふやな自分が執着しているそれも、あやふやなものである。
仏教で言うと色即是空。
つまり、自分の存在すらはっきりしていないんだし、そんな自分が所有できるものなんてひとつもない。
自分も推しもソシャゲもアニメも不変ではなく、今ただ縁起によってそこに存在しているように見えるだけのもの、と考えると思い通りにならなくて当たり前というか、執着の気持ちも薄れてくる。
実際問題、今大人気のソシャゲも自分がおばあちゃんになる頃まであと30年以上続いてるのか? と考えると多分そうじゃないだろう。言い切れないけど、どうだろう……。
また自分がこの先30年、同じソシャゲただ一つを愛し続けていくのか? と考えてみると、多分そうじゃないだろう。言い切れないけど、どうだろう……。
そんなふうに考えていると、宇宙猫みたいな、よく分からないけど何かが解き放たれたような感覚になってきた。
この世に自分のものなんてひとつもないのだと思うと、この思い通りにならない世界を、今、いかに自分が楽しむか、それだけしかやりようないな、ということになる。
仏教本で面白かったのは『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』。仏教の考え方をサクッと読める。
脳がいかに信用ならないものであるか、ということについては、有名なラマチャンドランの『脳のなかの幽霊 (角川文庫)』が面白かったです。
完全解決はできないから、いったん諦めてから考える
なんかのお悩みって、具体的にそれを完全解決することってほぼできない。
「ソシャゲの運営が私の推しキャラの新規絵を後回しにしやがった!」ということがあったとして、「だから運営に直訴して実装してもらった、めでたしめでたし」というふうに解決できることってほぼないと思う。だいたいのことは思い通りにはいかず、徒労に終わる。
だからほとんどのことは「自分の中での折り合いの付け方」を見つけ、うまく付き合っていくことになる。その「自分の中での折り合いの付け方」をたくさん持っているほどラクになる。(この記事もその折り合いの付け方のバリエーションのひとつとして読み流していただきたいです。)
もちろん「ソシャゲの運営が私の推しキャラの新規絵を後回しにしやがった!」みたいなことがあった場合、まずは運営に意見や要望を出すのも大事だと思います。ユーザーの声を届けるのはやっぱり大事だし、場合によっては要望が通ることもあるかもしれないし。
ただこのとき「ふざけんなもうやめてやる」「今まで課金したお金返してください裏切られた気持ちです」みたいにうらみつらみになっちゃうと先方にただの【感情的なクレーム】みたいに伝わってしまい、【要望】として伝わらない……になりがち。
そういうときも「世の中に自分の思い通りになることなんてないんだけど、だとしてもできる限りユーザーの意見や要望を伝えよう」と考えてみると、もっと伝わりやすい言葉が出てくるのではないか。そしたらお互い幸せなのではないか。
「この世に自分のものなんてひとつもない、私(わたくし)してはいけません」というこれは昔、昭和のはじめに、近所で土地の境界のいさかいが起こったときにお寺のお坊さんがこう言ったんだよって曽祖母から聞いた話。
お坊さんの言葉は自分の土地を死守したい双方の心には届かず、いさかいは全く収まらなかったそうですけど。(そりゃまあそうだよね。)
曽祖母は「なるほどなあ、そういう考え方ができるといいよなあ」と思ったから私に教えてくれたんでしょう。私も「なるほどなあ、そういう考え方ができるといいよなあ」と思ったから今ブログに書いています。
何かを死守しようとしたり取り合うのって、なにより自分がしんどいもんね。ほんとしんどい。
だからなんの執着も持たずに生きるべき、ということじゃなく、何かに執着しそうになって苦しくなったときに「そうだった、自分のものなんてひとつもないんだった」と思い出すことで、私はちょっとだけ楽になるんです。今もライフハックの一つとして、使えるときは使っている。