公式・運営に対して不満があるとしんどいよね…私はこう考えてます

「好きなアニメがあるんだけど、公式の方針に不満がある…このままだとこのアニメ自体嫌いになりそう」

「やってるソシャゲの運営が求めてない実装ばっかりしてきてうんざり。やめちゃうよ?」

といらだっている人向け【公式・運営に不満があるときってどう考えると楽になるのか】という記事。

Twitterをやっていると、いろいろなアニメやゲームについて「もっとこうして欲しいのに」という不満を見かけることがあると思う。また、自分でも不満を感じて、それを発信している人もいるかもしれない。

けど、作品やゲームに対して不満を抱きつつ好きでいるのってストレスたまるよね……。いつも配偶者の悪口言いつつ別れないみたいな。

自分自身も長らくオタクとして生きてきて、そういう経験はしてきた。

これは【公式や運営に不満を抱いたとき、どう考えたら楽になるんだろう】とあれこれ試行錯誤した苦しみの記録である。

公式・運営に対して不満があるとしんどいよね…私はこう考えてます

「もう私にはこれしかない、このソシャゲがサービス終了したら私も死ぬしかない」みたいな感じで一つのジャンルにどっぷり行ってしまうと、運営のちょっとしたやり方が不満に感じてしまいやすい。(自分の生きがいを奪われるかもしれないという恐怖に近い)

「新キャラで新規が増えたからって、これから当分新キャラメインで行く感じ? 既存のキャラは置き去りですか?」

「アニメ化なんか絶対ダメ! 推しのイメージが変わっちゃったら絶対いやだ、生きていけない」

みたいになっちゃうと、すごいしんどいと思う。

これは⒉5次元でも三次元でも起こり得る。

「推しの俳優・声優が私のイメージと違う役を演じるなんていやだ、それで新規ファンがつくのはもっといやだ」

「⒉5展開に原作が引きずられるのは許せない、原作ファンを蔑ろにするな」

などなど、まわりをみているとみんなどこか、なにか、戦々恐々としている。

中には逆に、

「公式の方針で楽しめない人は心が狭い、文句を言わずに黙って去れ」

「何を演じようとファンならついて行くべき! できない奴はとっとと降りろ」

みたいな言い分も出てきて、よけいに溝が深まっているのを見ることも多い。

それまでなんとも思ってなかったのに、そういうのを見ちゃってジャンルに嫌気が差しちゃうこともあるかもしれない。(自分はこのパターン)

一つのジャンルにどっぷり行かない

でもさあ、せっかく趣味で好きでいるんだから楽に楽しく考えたいよ……。

ということで、自分はいろいろと考え方を試行錯誤してみているんです。

まず具体的にどうしているかというと、一つのジャンルだけにどっぷり行かないようにしている。アカウントも複数に分けて、別ジャンルのことは持ち込まない。別ジャンルの愚痴はたまに言う。

これは学校でも職場でも人間関係でもなんでもそうだけど、居場所は複数ある方が安定するからだ。

「サービス終了したら生きていけない」とか「推しキャラのイメージが変わったら生きていけないからアニメ化絶対無理」くらいまで行っちゃうって、もはや好きを超えて依存の域になってしまっている。(自分も経験がある)

でも好きと依存はどうしても隣り合わせ。どこまでが「好き」でどこからが「依存」かなんてわからないし。

なのでまあ、好きを超えて依存してもいいじゃんってことにする。

ただし、依存先を一つに絞らない。

"依存しない"のではなくて"依存する先を増やす"といい、というのはよく言われることです。それを推しに対しても適用する。

なんかこのジャンルの雲行き怪しいな、新情報来てみんな荒れてるな、みたいになったら、引きずられる前にちょっと避難する。

三次元の推しに対しても、「この人だけ!!!」になるより複数の推しや舞台作品を追いかけることで視野も広がり知識も深まる、と思うんだけどどうでしょう。

推しが伝統芸能の役者さんと共演したらそちらにも興味を持ってみる、推しの演出をした演出家さんの他のお芝居を追いかけてみる、など。

もちろん次元関係なく"いちばんの推し"は存在していいんだけど、そこだけに依存を向けないようにするというか。みんなで全体重かけたらそりゃ推しも潰れるもんね。

「not for me だった」と考える

最近よく言われるのが、「不満に感じるってことはnot for me ってことだよ」というの。

つまり、自分向けではなかったということ。

例えば「なにこのアニメつまんないじゃん、もっとこうしろああしろ」と考えるのではなく「このアニメは自分向けに作られてなかったな(私はターゲットではなかったようだ)」と考える。

幼児向けのおゆうぎ番組を大人が観ても面白くないのは大人向けに作られていないからだし、政治経済の番組を子どもが観てもつまらないのは子どもが観ることを想定していないから。

自分はターゲットではなかった、それだけのこと。

たださあ、どっぷりハマって今までガッツリ課金もしてきたコンテンツに対して今さら「not for me だわ」とは思えないよね。そこがしんどいんだよね。

まわりの人はワイワイ楽しんでるのに自分だけ放り出されたような、なんとも寂しい感じ……。

今まで自分もターゲットだったのにターゲットから外れてしまった、今まで楽しかったのに、急に無視されてしまっているような感覚になるのかもしれない。

今まで使ってきたお金は……? アタシ貢いだあげく捨てられたの……? みたいに感じちゃうのかもしれない。

「え、寂しい……」と言うかわりに公式への不満を言いたくなっちゃうのかもしれない。

そういうときにどう考えればいいんだろうっていう、最後の手段の話を書きます。

「この世に自分のものなんてひとつもない」

仏教の考え方と心理学的な考えって根っこは同じで、脳科学や心理学で解き明かすような理屈の小難しい問題を「お釈迦様はこう言っている」というふうにみんなにわかりやすく説くのが仏教なんだと思う。(たぶん宗教全般がそうだと思うけど、他の宗教には詳しくないので)

心の問題を抱えたとき、脳科学で解決しようとすると難解だし、腑に落ちるまで時間がかかるので、仏教で考えるといいよ、という話です。

※なので、この記事では別に宗教をおすすめしているというわけではないです。

昔、私が出会って即効性があった仏教の考え方は、

この世に自分のものなんてひとつもない。

というもの。

そもそも仏教(脳科学)というのは「自分」というものも存在するのかしないのか、どこまでが「自分」なのかなんて分かんないよね、みたいな考え方。色即是空。

自分のものなんてなにひとつないんだ、と思うと、

ソシャゲもアニメも不変ではなく、今ただ縁起によってそこに存在するもの、と思うと、

よけいに尊く感じられない?

実際問題、今大人気のソシャゲも自分がおばあちゃんになる頃まであと30年以上続いてるのか? と考えると多分そうじゃないだろう。

この先30年を考えてみると、自分の心も必ず移り変わるだろう。別の推しにハマって、別のジャンルを好きになって、またそこで大騒ぎするんだろう。

だったら今このとき、このジャンル、この推しに出会えて好きでいる奇跡をもっと大事にしていいんじゃないか。この奇跡はほんの一瞬だもの。

そこまで視野を広くとってしまえば、「後から実装された人気キャラのせいで自分の推しキャラの新規絵が後回しになってムカつく!」なんてことはあんまり気にならなくなるんじゃないだろうか。

人気キャラに押されて推しの新規絵が後回しになったことすら、推しが確かに存在していた尊い思い出の一つになる。

他にも"好きだった俳優がブレイクしちゃって寂しい"とか"好きだったYouTuberが登録者数増えて方針が変っちゃって悲しい"とかいうときも。

「この世に自分のものなんてひとつもないんだったな。自分の思い通りになることなんてない、それで当たり前なんだ」と考えることで、(自分に好ましくないと思われた)変化を冷静に受け止めることができる。

間違っても、好きが転じてアンチになり粘着してしまうなんてこともない。

いつにも増して「なに言ってんの?」って感じですみません

自分でも自分に「なに言ってんだこいつ」と思うんだけど、最近見かけるお悩みで多かったのでこんな記事を書きました。

なんかのお悩みって、具体的にそれを完全解決することってほぼできないんだよね。

「ソシャゲの運営が私の推しキャラの新規絵を後回しにしやがった!」ということがあったとして、「だから運営に直訴して実装してもらった、めでたしめでたし」というふうに解決できることってほぼない。

世の中のお悩みのほとんどって、自分の中で折り合いをつけて、ガマンしたり割り切ったりしてうまく付き合っていくことになると思う。

これは「そのための考え方として、こういうのもあるかも」という記事にすぎません。

もちろん「ソシャゲの運営が私の推しキャラの新規絵を後回しにしやがった!」ということがあった場合、運営に意見や要望を出すのも大事だと思います。要望が多ければ聞いてくれることもあるはずなので。

このとき下手すると「悲しいです」「裏切られた気持ちです」みたいにうらみつらみの【お気持ち】になっちゃって肝心なご要望が伝わらない……になりがちだけど、

「世の中に自分の思い通りになることなんてないんだよな、自分の存在すら色即是空であることよ……」という考え方が元にあれば、もっと気軽でクリエイティブな、伝わりやすいご意見を言えるんじゃないかなと思う。

「この世に自分のものなんてひとつもない、私(わたくし)してはいけません」というこれは昔、近所で土地の境界のいさかいが起こったときにお寺のお坊さんがこう言ったんだよって曽祖母から聞いた話なんです。

いさかいは全く収まらなかったそうですけど。

曽祖母は「なるほどなあ、そういう考え方ができるといいよなあ」と思ったから私にも教えてくれたんでしょう。私も「なるほどなあ」と思ったから今ブログに書いています。

何かを死守しようとしたり取り合うのって、なにより自分がしんどいもんね。ほんとしんどい。

だからなんの執着も持たずに生きるべき、ということじゃなく、何かに執着しそうになって苦しくなったときに「そうだった、自分のものなんてひとつもないんだった」と思い出すことで、私はちょっとだけ楽になるんです。

ライフハックの一つとしてどうでしょう。

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