「流行りの絵柄や流行りのテーマのほうが評価されやすいのかな……? でも私は流行りものが良いとは思わないから描きたくない。こんなんだからいいねが少ないのかな? 自分の描きたいものをあきらめて流行りの絵柄にしたほうがいいのかな……」
と悩んでいる人向け【人間が流行りに惹かれる理由を考えてみたらどうでもよくなってきた】という話。
自分は、20代頃まで流行りものを毛嫌いして牙を剥いて生きていた。
今考えてみると自分の場合、何かりっぱな信念があったわけでもなく「私は特別なセンスを持った人間なんだから流行りなんて乗るもんか!」という、単に思春期にありがちな心理だった。
社会に出て経験や年齢を重ねるにつれ「自分は特別でもなんでもない」ということをイヤというほど思い知り、今は抵抗なく流行っているものを楽しんだり取り入れたりするようになった。
そんな一周まわった今だからこそ「かたくなに流行りを拒絶する時期があってもいいし、軽い気持ちで流行りに乗るのもいいし、流行りを尻目に自分の好きなものを描き続けてもいいよな」と思えるようになったという話。
「流行りの絵柄は描きたくないけど大勢に評価されたい」の葛藤
「いいねが少ないのは私の絵柄が古いせいだと思う、それは分かっているけど流行りの絵柄を真似したくはない。今の私の絵のままで評価されたい」みたいな感じで悩んだ時期があった。20代くらいまで。
この悩みが長引いてしまったのは、両立しにくい二つの望みを二つともいっぺんに叶えようとしていたためだった。(けどまだ若かったせいもあり、気付けずにただただつらい時期だった)
- いいねがたくさんほしい、大勢に認められたい
- 古かろうがダサかろうが下手だろうが自分の絵を変えたくない
この二つが両立することは絶対に無理なわけではないだろうけど、まあまあ難しいように思う。これを同時に大成功させられるのはほんの一握りだろうし、自分はその一握りの中には入れないだろうこともうすうす気づいていた。
なので「はあ……センスと才能が欲しい……(そしたら今の私のままの絵柄で評価されるはずなのに)」と愚痴るだけで何も努力していなかった。
虻蜂取らずになることが分かっているので虻にも蜂にも手をのばさずに「はあ……」と言うだけの日々ーーにもいいかげん飽き飽きして、「大勢にウケるような絵柄を模索する場所」と「古かろうがダサかろうが自分の絵を描き続ける場所」を二つ作ることにした。(具体的には個人サイトを複数作っていたけど、今ならTwitterのアカウントを分けるとかでできそう)
「いやいやそうじゃないでしょうが、自分のままの絵で評価されたいんだってば!」と思うかもしれないけど、それぞれの欲求をバラバラにすることで満たしやすくなり、満たすことで気が楽になった部分もあり、だいぶ気が済んだ。
欲求をしっかりパッキリ完全に分けて、片方では「ここではひたすらウケる絵を探求するんだ!」もう一方では「流行りやウケはいっさい無視! 好きな絵だけを描くんだ!」と望みを混ぜないようにした。
「流行りを探求する場所」では塗りを勉強してみた
流行りを探求する場所では、具体的には講座や書籍などで「塗り」を勉強し、練習していた。
髪や目の塗りで絵の雰囲気がガラッと変わるので即効性が感じられたことが、焦っていた自分にとってはありがたかった。また純粋に興味深くもあり、途中から流行りうんぬんではなくただただ面白くなっていった。今も知ってよかった、練習してみてよかったと感じている。
自分の頃は使用ソフトはSAIで参考書籍も少なかったように思うけど、今だとクリスタが主流でいい書籍も鬼ほど出ている。
▽パルミーにも髪や目の塗りについての講座がありました。
あとは自分が「かっこいい」と思う絵柄を模写しまくった時期もあった。
けど、こちらはすぐに目に見えて絵がいい感じになるとかではないので地道な積み重ねだった。
どっちの望みに対しても葛藤することなく(←これがミソだったように思う)、シャカリキに取り組むことができ、これだけでもだいぶ気が済んだ。
それでも「自分のままで評価されたい」という気持ちは全くゼロにはならなかった気がするので、考えてみたこと。
そもそもなぜ人は流行りに惹かれるのか
流行りものを避けに避けて生きてきたので、「なぜ大勢の人は流行りに惹かれるのか」というのは自分に当てはめて考えることが難しい。
- 今の時勢が求めているものだから、自分にも合う
- みんなが良いと言うものに乗っかっておけば間違いないだろう
- 「これ良いよね!」「分かる分かる!」という一体感の中にいたい
推測やまわりの人を見て考えてみたら、こんな感じになった。
今の時勢が求めているものだから、自分にも合う
今のところいちばんこれがしっくりきている。
「夏になると、体が冷たいものや爽やかな味のものを欲する」「冬場は温かい根菜料理が美味しく感じる」「春先は苦味のある野菜が食べたくなる」みたいなもので、時勢によって欲するものが変わるのではないか。
景気が良い時代はこういうCMが流行るとか、景気が悪い時代はこういうバラエティ番組がウケるとか、時流によって勧善懲悪モノが流行ったり、逆に流行らなかったりとか、そういうことってあるようだ。
大衆の1人である自分も時勢の中に生きているわけで、その大きな時代の流れによって心身が欲するコンテンツが変わって当然なのではないか。
時勢の影響をダイレクトに受けないような状況の人や、あまり過敏に捉えない人はもしかしたら左右されにくいかもしれない。完全に空調が管理された中で暮らしていれば「最近暑いからあれが食べたい」「冷え込むからあれが食べたい」みたいなこともないのと同じで。
みんなが良いと言うものに乗っかっておけば間違いないだろう
これは私の知人が言っていたことで、「そんなふうに考える人っているんだ!」と強烈に驚いたのでよく覚えている。
知人と2人でファミレスでご飯を食べていたとき、知人はたびたびTwitterをチェックして「いいねが済んだ」というようなことを言った。その言いかたがあまりにも作業じみて感じたので「どんなツイートにいいねをするの?」と聞いてみたら、内容に関わらず友人のツイート、推しのミュージシャンのツイート、友人や推しがいいねしているツイート、なのだそうだ。
さらに「誰々もいいねしてるし、いいねしておかなきゃ悪いから」「私だけいいねしてないってバレたら気まずい」「タイムラインに流れてくる『誰々がいいねしました』というツイートには必ずいいねをする」みたいなことも言っていた。友人や推しと話を合わせるために同じアニメを観たり同じゲームをしたりすることもあるとのことだった。
たぶん知人はかなり極端な例だと思うし、そんな人が世界の何%くらいいるのかはわからないけど、「他の人が良いって言うものは良いんだろう」「みんなと同じものを好きになっておこう」「話を合わせるために知っておこう」という考え方をする人って私の想像よりも多いのかもしれないと感じた出来事だった。
物心ついてからずっとあまのじゃくとして生きてきた自分とは違う考え方だ。
人の評価ってそんなものなのかもしれない……と、いい意味でどうでもよくなったきっかけの一つ。
「これ良いよね!」「分かる分かる!」という一体感の中にいたい
これは私にも分かる。
「良いー! それ分かるー! 良いよねー!」と心の中で言いながらいいねすることが私にもあるからだ。
ひとりがイヤというわけでもないけど、いわゆる過疎ジャンルにいた時期にはごくまれに同じCPの同志を見つけると嬉しかった。宇宙空間に放り出されて1人プカプカ浮いていたらふいに誰かの信号を受け取ったみたいな、ちょっと他では代わりにならないタイプの喜びを感じた。
流行りのジャンルならばこの喜びがもっと頻繁に起こるわけで、これが常にある状態で当たり前になると無くなったら寂しいかもしれない。
考えてみたら「まあいいか」になった
と、なぜ流行りが起こるのかについてひとしきり考えて、自分でも流行りの絵柄を描こうと試行錯誤してみて、「なんだ、どうでもいいな。じゃあ自分は流行りの絵柄を描けなくたってまあいいか」になった。
今はだいぶ絵を描く時間も取りにくくなったこともあり、描くのは自分の描きたいものを優先させている。
流行りの絵柄でなくたって自分が劣っているということにはならないのだし、流行りというのは儚い泡沫のように移り変わるものでもある。「この前までみんなあの作品にあんなに熱狂してたじゃん! 今はそっちなの!? あっちはもういいの!?」ということも多々ある。
儚い泡沫を俊敏に捉え続けることで見る人を飽きさせない人もたくさんいるけれど、自分はそういうスタイルで絵を描いていくことに向いていない。見る人を楽しませるために描くというよりは、自分の頭の中のものを形にするために描きたいタイプなんだな、ということも改めて実感した。
今となっては、まわりの人が流行っているものに惹かれていっても「うんうん、それいいよね〜」と思いこそすれ、ぐぬぬとはならなくなってきた。
さんざん悩んでさんざん試行錯誤したせいもあるけど、年齢を重ねたせいもあると思う。
いったんあがいてみると気が済むかもしれない
もし自分がずっと虻も蜂も見ているだけで何もせず「流行りの絵柄なんて私は描けなくていいし!」と嘯くだけだったら、今でもずっとモヤモヤしっぱなしだったかもしれない。
いったん全力であがいてみたことで「ああなるほど、きっとみんなこういうところに惹かれるんだ」と納得する部分もあったり、「じゃあ私はいいわ」と吹っ切れたり、それでも気持ちが振り回されたり、いずれバカらしくもなってあきらめもついたり、ということだったのかなと思っています。
「いったん」とは書いたけど、何年もかかり、何回もぶり返したので、そこそこ長い年月かかりました。人生が終わる前に方がついたことがむしろ奇跡なのかもしれない。
▼しょうこりもなくまた何か悩むかもしれない未来の自分に向けて書き残しておく。
- いったんしこたま悩んでみて、
- 問題を小分けにして、
- それぞれの解決法を調べるなり探すなりして、
- 実際にやってあがいてみる
※私の場合はどうせ長くかかるし必ずぶり返すので、早めに取りかかるのが吉。