「絵を描くと過去のトラウマがよみがえってつらい」を薄れさせる方法

絵を描こうとすると過去のトラウマ(誰かに下手だと言われたとか、さらしものにされて笑われたとか)を思い出してつらくなってしまい、苦しくて描けなくなってしまう……

という人向け、【過去のトラウマを薄れさせて楽になる方法】についての記事。絵を描くことに関する心の傷だけでなく、それ以外にも使える方法だと思います。

絵を描こうとすると昔の心の傷を思い出してつらくなり、どうにも作業が続けられない……という悩みを何人かの方から聞いたことがある。

美術の時間に先生から傷つくことを言われたとか、親にイラストをけなされたとか。

絵が好きでずっと描いていきたいのに、絵を描くたびにその出来事がよみがえって、手が止まってしまう……。

そういうときに楽になる考え方について、自分の経験をもとに書く。

※専門家の知人に「トラウマという言葉はもっと深刻な状態のことを表すもので、『思い出すとつらい』程度のことに対して簡単に使うものじゃないよ」と言われたのだけど、検索しやすくするために敢えて使っています。

私が絵を描いていて受けた心の傷

自分が受けた心の傷の中で、いちばん派手なものについて書く。

やる気がなくてちょっと雑な絵を描いたとき、教師が「みんなこの下手な絵見て! ミミズが這ってるみたい! ダメだねー! このダメなお手本をみんな見に来なさい」とクラス全員に私の机の前で列を作らせた。教師は「ほらみんな、このダメな絵に一言ずつ言ってやりましょう!」とけしかけ、クラス全員一人一人に順番で見下ろされながら、罵りや嘲りの言葉を投げかけられたことがある。

今となると笑っちゃうけど、そのときは心にダメージを受けたし、数年引きずった。

こんな感じで、生きていれば理不尽な事故的な感じで心にザックリと傷を負うことってある。

自分はこの「ミミズと言われてクラス全員に罵られ事件」がつらすぎて、どうにかして乗り越えようといろいろ調べたり、人の話を聞いたり、本を読んだり、仏教や心理学を学んだりした。

何年もかかったけど、結果として心のダメージを乗り越えるコツをつかんだ気がするので、あれはあれででありがたかったのかもしれない。

あれでだいぶ図太くなれた気がするし、人生全般に対しての考え方が分厚くなった気がしている。

トラウマを薄れさせるために私がやったこと

反芻して味わうのをやめた

まず心理学的には、脳のクセに気づくことが重要だとされる。

イヤな思い出を思い出してはそのたびにイヤな気持ちになるわけだけど、それって、

"このつらい記憶をわざわざ思い出しているのは自分なんだ"ということ

記憶はただの記憶であって、今起こっていることではない。

たとえて言うなら、思い出すのもイヤなことを録画しておいて、何度も何度も自分で再生ボタンを押して「あーイヤだ、あーつらい、もう一回(ポチッ)」をやっている。

記憶が勝手に再生されているのではなく、自分が思い出している。過ぎ去ったことを引っ張り出しては、反芻して味わってしまっている。たくさんのライブラリの中からそれを選んで再生ボタンを押して、わざわざ思い出して、つらさに浸ってしまっている。

なので、

  • 記憶のライブラリの中からそれを手に取らない
  • 手に取ってしまったら見ずに戻す
  • 再生ボタンを押さない
  • うっかり再生してしまったら味わわずにすぐ消す
  • 「また自分で再生ボタンを押してしまったな」と棚へ戻す

というのを意識してやってみていた。「ついボーッとなんとなく再生ボタンを押してしまうの」が問題なので、とにかく意識するようにしていた。

何度も何度もつらいつらいと言いながら再生ボタンを押してしまうのは、つらいその記憶の中毒になってしまっているということ。

ニコチンやアルコールもそうだけど、やめるために大切なのは「社会生活に支障をきたすのにやめられないというのは、中毒なんだ」と自覚することと、意識的に遠ざけること、なのだそうだ。

イヤな思い出についても、そのやめ方を応用してみた。

それでもつい、再生ボタンを押してしまうことってある。そういうときはあるお坊さんが言っていた「いやな記憶は打ち上げ花火みたいなものと考える」というのを思い出すようにしている。

打ち上がっては消えていくのを、ただ見守る。

「あー私は今、あのイヤな思い出を思い出してる〜。ハイハイ。……ということがありましたとさ。おしまい。」

そして再び静かな夜空になる。

坐禅ってそのためにやるんだってさ。

思い出しても浸らない。味わわない。

思い出しては心を強く揺さぶられることで、脳の扁桃体という部位が「これは忘れちゃいけない記憶だ」と判断してしまい、より記憶を強化してしまう。

逆に、たとえ思い出してしまっても感じずに受け流すことで、その記憶は効力を失っていく。

自分の心は自分でしか癒せない、と気づいた

ひどいこと言ったやつに対して「謝ってほしい!」「この私の苦しみを分らせてやりたい!」「こんなに傷ついてるって知ってほしい!」みたいな感情ってある。

自分も教師に対して「あいつ今何歳だ? 教育委員会に密告して定年退職前に波乱起こしたる!」とか「土下座して謝罪させるために同窓会企画したる!」とか思ったりしたことも正直あった。

けど、きっと当の本人はそんなこと忘れているし、「謝ってよ!」と言ったところで「は?」となるのがオチ。たとえ謝ってもらったとしても、過去の全てがスッキリするわけでもないだろう。

もうそばにいない憎い相手のことを自分だけが思い出して、自分だけが苦しんでいるなんて、不毛な片思いすぎる。その馬鹿らしさに気づいたことで、バカバカしすぎて方向転換できた。

他人はコントロールできないし、自分の心は自分でしか変えられない、癒せない。

記憶の再生ボタンを押しているのは自分であって、憎いあいつではない。

事実としていったん自分の非を認める

これもお坊さんの話で聞いたことだけど「自分にも悪いところがあったな、と思えたときに恨みはスッと消えます」というもの。

「はあ!? 私悪くないし! 100%あいつが悪いし!」とキレかけたけれど、少し客観的になってみた。

自分の「ミミズと言われてクラス全員に罵られ事件」の場合も、自分がやる気のない絵を描いていたという自覚はあったので、自分の非を真正面からブッ刺してこられたことに対して恥ずかしさがあり、より強く「怒り」「許せなさ」を感じたのだと思う。

心の傷が、悲しさだけでなく、「あいつのあの一言が許せない」「思い出すだけで気持ちが煮えくりかえる」などと激しい怒りをともなう場合、自分の痛いところを突かれている・自分に何かしらの非があることも多いのかな、という気がする。

自分の非を認めたくないために、「怒り」というより強い別の強い感情を持ってきて「すべてあいつのせいだ!!! 私は悪くない!!!」と思い込みたくて、自分を守ろうとして、ごまかしている場合がある。

自分の場合も、この過剰防衛気味な「怒り」になり、より負の気持ちが長引いてしまっていた。

そこで、ウソでもこんなふうに思ってみるようにした。

「でも確かに自分もやる気なかったからな〜。あの教師が98%クソだけど、敢えて言うならだけどまあ私も悪かったわ、ちょっとだけ。2%くらい」

ウソでもいい、口先だけでもいいので、自分の落ち度を事実として認めてあげることで、少しずつ激しい怒りは薄れていった。

その激しい怒りは「私は100%悪くない!」と自分を100%、完全無欠で守りたくて起こっているので、自分に2%でも非を認めることで楽になったりする。

「この世で人と人が関わり合って生きていく上で、100%相手が悪くてこっちに落ち度は1ミリもない、なんてこともあり得ないよな」と考えるようになった。

トリガーになることを意識して避ける

しばらくは思い出すトリガー(引き金)になりそうなことを意識して避ける、というのも、緊急回避的に効果があると思う。

自分は、そのとき使っていた絵の具のバッグを捨てて新しいものにした。

思い出しにくくすることで、思い出す頻度を減らす。そうすれば少しずつ記憶は力を失っていく。

人間の脳って自分で思っているほど高性能じゃないので、思い出さなければ必ず記憶は薄れる。

過去の記憶は時間が経つと必ず薄れてくる

「一生このつらい記憶と向き合っていくのか」と考えると絶望してしまうけど、年月が経つと自然と記憶は薄れていったり、新しく上書きされたりする。

でも常に思い出して常に憎んで常に苦しんで、とやっていると、毎日毎日復習して強化しているみたいなもので、記憶がなかなか薄れてくれない。

なので、イヤな記憶が経年劣化しやすいように、

  • 自分がわざわざ自主的に反芻している(再生ボタンを押している)ということに気づく
  • 思い出してしまっても浸らずに、花火のように消えるのを見守る
  • 自分の落ち度を0.1%でもいいから認めてみる

みたいな感じで意識するようにしていたら薄れていった、という話です。

自分の思い出を管理しているのは自分で、再生ボタンを押すのか押さないか選択するのも自分、「怒り」の奥の自分の非と向き合うのも自分、どう考えるか決めるのも自分、ということになると思う。

ネットでいくらこういう記事を検索したり読んだりするだけではトラウマは薄れない。(読むだけで自分の過去の記憶が消える文字列があったりしたらおそろしすぎる。)

結局は、自分で考え方を切り替える必要がある。

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