絵が上手くなるための才能がもしあるとしたら、この三つなんじゃないか

画力やセンスって生まれつき持っているものでしょ?どうせ私は生まれつき画力もセンスもないから、絵が上手くならないんだ……

と悩んでいる人向け【絵が上手くなるための才能がもしあるとしたら①描きたいという気持ちを持てること②素直に人から学べること③学び続けられること、なんじゃないか?】と考えてみた記事。

「私は生まれつき才能がない、だから努力しても無駄だ」という考え方を、自分もさんざんしてきた。

今思うと、これはラクな言い訳だと思う。たいして努力もしなくてすむし、「上手くならないのは私のせいじゃないし、なんなら私かわいそうじゃん。あーあ、才能がある人はいいなあ」とうらやんでいればいいのだし。

しかし、絵の上手い下手って本当に「生まれつき」なのか?

何でそんなふうに考えてしまうんだろう?

「絵が上手いのは生まれつき」と思いこんでしまう理由

物心つく前に「上手い下手」のジャッジがされてしまうから

自分が小学校に勤務して子どもたちの絵を見ていた頃の経験を踏まえて、考えてみた。

自分が見ていたのは主に1年生だけど、小1ですでにソツのない絵を描ける子どもとそうでない子どもの差はあった。

一般的にそういう「ソツのない絵を描ける子」が「絵が上手い子」とされ、ここで早くも子どもたちにとって「絵の上手い下手」が確定してしまう。

小1、たった6歳の段階で、まだ何の努力もしないうちに上手い下手が確定してしまうのでは、そりゃあ「絵の才能は生まれつきだ」としか思えなくなる。

「○○ちゃんはもともと上手くていいなー」「絵がもともと上手いんだから賞をもらえるのは当たり前。ずるい」みたいな言葉もよく耳にした。

絵の上手い下手が生まれてたったの6年で確定してしまうのでは、そりゃあ「才能がない自分が努力する意味なんてないよな」になってしまう。

でもそれは「絵が上手い」んじゃなくて「ソツのない、体裁の整った絵が描ける」というだけ。

自分自身も「ソツのない絵を描ける子」だったからずっと「絵が上手い、才能がある」と(お世辞を)言われて育ってきて、美大受験に行き詰まった時点で「あ、私は絵が上手くなんかなかったんだ……ぱっと見ソツのない絵が描けるだけだったんだ」とやっと気づき、いったん人生が振り出しに戻り、仕切り直しになった。

人の努力は見えないから

他の人が上手い絵を描いているのを見たとき、つい自分は「絵が上手くていいなー、才能やセンスがある人はいいなー」と思ってしまっていた。

「こんなに良い絵を描けるなんて、きっと長年努力し続けているんだろうな。きっといろいろとがんばったんだろうな」とは思わなかった。自分自身が大した努力をしていなかったから、人の努力に気づけなかったのだ。

自分より優れている人に対していつも「良いなー」「うらやましいなー」「私も才能があったらよかったのになー」ばっかり言っていて、あるとき、「そりゃあ私は努力してるからね! 何もせずに良いなーとかうらやましいなーとか言ってる人とは違うから!」とキツめに言われたことがあって、ひどくショックを受け、恥ずかしくなった。

「才能があっていいなー(あなたは何の努力もせずにうまくいっていて、ラッキーで良いなー、ずるいなー、私も努力せずにうまいことやりてーなー)」と言っているようなもので、とてもあさましかったと反省している。

以前「絵の練習100日チャレンジしたらこれくらい上達した」というのがTwitterで話題になった。

それを見て「勇気をもらった! 私も100日がんばってみよう!」という反応もあったけれど、「いやいや、もともと上手かったんでしょ?」「上達できたのはもともと才能があったからだよ」と、努力を見ようとしない人も多かった印象がある。

「100日やればこれだけ上手くなったのか……、あーでも自分はめんどくさい、むり、がんばって上手くなれなかったらへこむし損だし、100日もやりたくない。むり、がんばりたくない」

(サボりを正当化するために、がんばらなくていい理由が欲しい)

「上手くなれたのはその人はもともと才能があったからだよ。私は才能無いし、がんばっても無駄だからがんばらなくていいんだ! 上手くならないのは努力不足のせいじゃなくて生まれつき才能がないからです! 私にはどうしようもないことなんです! 才能がないので私はかわいそうなんです! だから私はがんばりません!」

昔の自分も、多分こんな感じの思考だった。

絵の上達に生育環境は関係するのか?

「親ガチャ」という言葉が最近あるけど、絵に関しても「親ガチャ」要素はあるのかないのか。

これはなんとも言えない。親や生育環境の影響は少なからずあるには決まっている。けどすべてではない。

いくら恵まれた環境で育ったとしても、成長には個人差がある

知人の両親はともに美術の仕事をしている。物心ついた頃から親は家庭で絵を描き、陶芸をし、子どもたちにもふんだんに画材を与え、美術館に連れて行った。家庭内には美術本やら良質なアニメやら古いマンガやらがあふれていた。彼は絵に興味を持って自分でも創作するようになり、美術の道に進んだ。

正直自分も彼の環境をうらやましいなと思っていた。自分だって彼みたいな環境なら今頃クリエイターなのに! 親ガチャのアタリずるい! と思っていた。

しかし一方、同じ環境で育った彼のきょうだいは全く別の道に進んでいる。

生まれたときからふんだんに絵に関するものを与えられたとしてもみんながみんなうまくいくわけではないし、そもそも本人が興味を持たなければ伸びることもない。

後から急激に伸びることもあるかもしれない

またもう一人の知人は、親が厳しくて高校生になるまでアニメやマンガにはほとんど触れずにきた。けれどその反動なのか高校に入学したとたん友達に借りてアニメやマンガを浴びまくり描きまくり、美大に進学して今は美術の教師をしている。

当然のことながら「俺は小さい頃アニメやマンガを禁止されて芽を摘まれたから、一生絵なんか上手くなるわけがないんだ……俺かわいそう……親を恨んでやる……」とか言っていたら今の彼は無いわけで。

人の成長というのはさまざまな要素があって、

  • 運要素(生育環境や親、きょうだいなど)
  • 縁要素(マンガ好きな友達や絵の上手い友達ができるとか)
  • タイミング要素(自立が始まる年頃でちょうど刺激的なカルチャーに出会うとか)
  • 本人のやる気要素(うじうじと人のせいにせず今の自分にできることをするとか)

どれも確かにある。どれもある種の才能だと言える。

けど、どれか一つで確定してしまうようなものでもなく、もっとも自分でコントロールできるのが4番目の「本人のやる気要素」だと思う。

必要なのは「素直な努力を続けられる才能」なのではないか

運と縁とタイミングすべてがそろっていたとしても、本人がやる気にならなければ無理なわけで、結局のところ、本人が努力をできるかどうか。ということになる。

絵が上手くなるために才能が必要だとして、だったらその才能というのは「素直な努力を続けられる才能」なのだろう。

学びたい気持ちを強く持ち、素直に教わる

数学が苦手で約分もよく分かっていなかった方が、何時間もぶっ続けで教わって微分・積分が解けるようになったという動画を観た。

なぜ解けるようになったかというと、

  • 数学が得意な人から教わったから
  • 分からないところを分かるまで質問して、理解しようとしたから
  • 「もっと解いたら分かりそう、練習問題出して!」と言って、たくさんの問題を解いたから

ということだと思う。

「学びたい」という意志を持って、得意な人から素直に教わり、取り組み続けたから。

ひとえに彼女の素直な努力が実を結んだ成果だと言える。

(それでも「もともとその子には隠れた才能があったんだよ」「もともと地頭がいいからだよ」という言葉で済ませてしまう人はいるのだけど)

学びたい気持ちを持ち続ける

微分・積分はぶっ続けで8時間教わることで、一気に学ぶことができていた。

でも絵というのはまたペースが違うことなので、8時間ぶっ続けで描けばぐんぐん上手くなって修了、というものではない。何年も何十年もかけてコツコツと、「もっと上手くなりたい」という気持ちを持ち続ける必要がある。

なんでも上達するまでは10,000時間必要だという説があるけど、これだと毎日3時間練習したとしても10年かかる計算になる。

つまり「学びたいという気持ちを、気長に持ち続けられること」も、絵においては才能なのかもしれない。

悩んだり休んだり人をうらやんだり、泣いたり怒ったりしつつも、なんだかんだで何年も絵を描き続けているならばそれもすでに才能なんだと。

絵を描くのに必要な「才能」とは

絵を描くために必要な「才能」とやらを、自分はこの三つに集約してみた。

  1. 「描きたい」という気持ちを持つ才能
  2. 他の人から素直に教わる才能
  3. やめない才能(継続して学び続ける才能)

今絵を描いていて「上手くなりたい」と思っている時点で1番はクリアだし、悩みつつ泣きながらでも絵を続けているなら3番もクリアだし、自分も含めてたいていの人が2番で引っ掛かっているように思う。

(絵ってなぜか「人に教わったら私のオリジナリティがなくなっちゃう」とか「私の好きに描きたい、ありのままの私の絵を認められたい」とか、「教わったら負け」みたいな意地のような感覚がある気がする。でも果たして本当にそうなのか?)

つまり「絵が上手くなるために必要な才能」とやらを最終的なところまで突き詰めると「他人から素直に教わり、いいところを取り入れることができるかどうか」ということなんじゃないか。

は? そんなこと? 才能でも何でもなくない? と思うかもしれないけど、これって誰にでもできることじゃない。

「他人から素直に教わる」というのは傲慢だとできないことだし、アンテナがヘボくてもできないことだし、変な意地があってもできないことだし、柔軟さや器用さも必要になることだし、まさに「才能」。

ただし、後天的に、誰でも、いくらでも磨ける才能だと思う。

怠惰で傲慢で意地っ張りな自分でも、心がけ次第で少しずつなんとかできる要素。

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