「きれいな人」「かわいい人」になりたかった自分が悩んで試してみたこと

「きれいになりたい、かわいくなりたい、でも私はブサイクだし整形するしかないのかな……」

と悩んでいる人向け【自分が悩んで試して行き着いた境地①顔の美醜は不安定なものだから時代によって変わる②スキンケアやダイエットで顔も変わったりする③自分に似ている芸能人を見つけて念じる】という記事。

子どもの頃からまわりになぜか「美人な友人」「かわいい友人」が多かった。

私自身が美人な人やかわいい人が好きだから、ついそういう子たちに近づいてしまうのか。はたまた、単に私がブサイクだから相対的にまわりが美人やかわいくなるのか。(※この謎も記事の最後に解けています。)

物心ついてからずっと「美人な人はいいなあ」「かわいい人はいいなあ」と思いながら生きてきた。

それは同時に、自分への強烈なあきらめとなっていた。

何をするにも「私はブサイクだしデブだしダメだ」と卑屈な気持ちがあり、いつもどこか無気力だった。

そのせいもあってなのか、ずっと自分の姿を嫌悪していて、カメラを向けられると冷や汗が出たりパニックになったりした。

「ブサイクでも何かがんばろう、ブサイクだからこそ何かを人一倍がんばらねば、生きている価値がなくなってしまうのではないか」と思ってせめて勉強は一生懸命やってきたことと、絵を続けてきたことが唯一自分のアイデンティティ。顔に対してコンプレックスがあるのに、なんの因果か似顔絵を描く仕事をしていた。

しかしそんな自分に対するあきらめが苦しくてたまらなくなり、一念発起して「きれいな人」になるためにいろいろ試してみたときの話を書きます。

「自分はかわいい」と自分で決める

もうこれはずっとずっと考えて、哲学や宗教や心理学の考え方も勉強して、寺に写経に行ったり坐禅をしたり悩みに悩み尽くして自分が行き着いたことなので、笑いたければ笑ってくれてかまわない。

かわいくなる方法は「自分はかわいいんだ」「自分はきれいなんだ」と自分で決めることだったのだ。

これは自己暗示とかではない。植物に話しかけるときれいに咲くとかいうアレでもない。

だから無理に信じ込もうとか思い込もうとかはしなくてよくて、単純に、キャンプ地を定めるかのごとく、「自分はかわいいとする!」と縦書きの筆文字で決める。私はどうしても「かわいい」に抵抗があったので「自分はきれいだとする!」にした。

「美しい」の基準なんてあいまいなものなので、自分でそこに線を引けば「美しい」になるのだ。

世界の果てを見てきた者のような結論だけど、いろいろな哲学でも学問でも宗教でもこういったことは説かれている。

そもそも「美しさ」なんて時代によっても違うし、同じ時代でも国や文化によって違う。

ネットが普及した現在では、そういった現実を簡単に見聞きすることができる。

大人になって視野や世界が広がったことで、毎日鏡で自分の目の形や大きさを見て数ミリのことでユウウツになることがバカらしくなってきたのもある。

「このきれいな自分をもっときれいにしてやろう」でダイエット

私は子どもの頃からいわゆる肥満児というやつだった。何度も何度もいろいろなダイエットを試したけど「痩せたってどうせブサイクだし、食事制限とか運動で苦しむだけムダ」という気持ちからいつもがんばりきれなかったのだ。

自分なんてどうせと思っているからスキンケアもヘアケアもする気がしなかった。ずっとおろそかにしてきた。

けれど、「自分はきれいだとする」と決めたことで「このきれいな自分をもっときれいにしてやろう」という気持ちが湧いてきた。

すると、今までたぶん100回以上挫折してきたダイエットにあっけなく成功した。

30代後半になってようやく標準体型に落ち着き、サイズを気にせず服を買える便利さに日々驚いている。いまだに、街なかでふと店のガラスに映った自分を見ても自分だと気づかない。「スラッとした人だな、私好みの服装だし好きな雰囲気の人だな……えっ私か!?」となるときさえある。

当然ながら、むくみや脂肪がなくなったことで顔も変わってきた。

顔も小さくなったので、顔を洗ったり化粧水をつけるたびに「顔ちっちゃいな〜! (今までが大きかっただけなんだけど)」と感動し、そうすると当然ちょっとていねいにケアしたくなり、肌の調子も良くなった。

自分に対するイメージを塗り替える

美醜に悩みすぎたことで、スピリチュアル方面まで行っていたことがある。

ただ自分は理屈屋なのもあって「理屈や根拠がしっくりこないことは無理」というスタンスだったので、ほとんどのことは話半分に読んでいた。

でも中には「これは仏教のあの考え方をかみくだいたものだな」とか「これはいわゆる量子物理学ってやつだな」みたいなものもあり、他の分野と照らし合わせていくと「なるほど」となることもあった。

その中で、脳科学の考え方と似ていて「なるほどなあ」となったことがある。

好きな顔の女優さんの写真と鏡の自分を毎日見比べ、「似ているなあ〜、私は◯◯さんにそっくりだ」とやっているうちに同じ顔になっていく、という、そんな感じのメソッドだったと思う。

「好きなモデルさんの写真を見ていたら一重まぶたが二重になっていた」とか「黒目が大きくなっていた」とか「髪の質が変わっていた」みたいな体験談が載っていて、そこまでいくと自分にはちょっと信じられないのだけど、ある程度まではあり得なくもない。

顔が変わると言っても骨が伸びたり縮んだりして顔の造形が変わるわけではなく、見慣れすぎてどっちが自分の顔かあいまいになるというか、好きでずっと見ているうちにちょっとした表情の作り方が似てくる、みたいな、脳のあいまいさを逆手にとった仕組みだと自分は考えている。

夫婦が長く一緒にいるうちに顔つきが似てくるとか、飼っている犬と顔が似てくるとか、そういう例を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。

奇しくも自分は似顔絵描きであり、たった線の位置が数ミリ違うだけで似たり似なかったりすることを身をもって知っている。大規模に骨を削ったりしなくても、ほんの少し顔の筋肉の動かしかたを変えるだけで印象は全く変わってしまうのだと。

だから、憧れの人の写真を手元に置いて執拗に見ることで、自分の顔つきがガラッと変わっていくというのは全然あり得ない話ではないなと思った。

できればなるべく自分に似た系統の顔だと脳が早めに騙されてくれるかもしれない。

プロの力を借りるのもいいかも

ここまでは全部自分で考えたり調べたりしてやってきたことだけど、もうこのへんでいいやという気持ちになっている。

自分の醜さに対する絶望感は、もう気にならない程度に薄れたからだ。

でも「ここまできたらもっともっときれいになりたい!」という人の場合プロの手を借りるのもいいかもしれない。眉毛サロンで眉を整えるとか、ヘアサロンで似合う髪型を教わるとか、美容部員のタッチアップを受けるとか。最近知った言葉なのだけど「表情管理」の訓練をするというのも一つの手段になりそう。

あんまり関係ないけど、自分はボイストレーニングに通った。自分の見た目にも自信がなかったけど、自分の声もまたモソモソして聞き取りづらくブサイクだと感じていたから。

ボイストレーニングをすると不思議なもんで顔つきも少し変わったように思うし、また発声のため姿勢が良くなったのもプラスだった。プロというのは褒め上手だからそれもまた自分の肯定感につながった。自分が勝手にダメだと思っていたことも、プロからすると別にダメじゃなかったりもしたし。

自分のまわりに美人な友人やかわいい友人が多かった理由

最後に、自分のまわりに美人な友人やかわいい友人が多かった理由について。

先日、中学時代の友人数名とばったり会ってお茶をした。そのときに「◯◯ちゃんっていうすごくかわいい子いたでしょ?」と話題に出したら全員が「?」となったのだ。「◯◯ちゃんだよ、何組の何部で……」と言うとその場の全員が「それは覚えているけど『すごくかわいい子』って言うから……」「あなたが皮肉でも言ってるのかと思って戸惑っちゃったんだよ」。

どうやら自分以外の人たちは、◯◯ちゃんのことを「すごくかわいい子」と認識してはいなかったようなのだ。彼女たちからすると○○ちゃんはどちらかというと残念なほうに分類される顔立ちだったらしい。

そんなバカなと思った。私はずっと羨ましくて嫉妬して「なんで私は○○ちゃんみたいに可愛く生まれなかったんだ」とつらかったのに。

「じゃあ××ちゃんは? ××ちゃんもすごくかわいかったでしょ? 私あんな顔になりたくてずっとうらやましかったんだ」「うーん……何を言ってるの? 皮肉じゃないんだよね?」「あなたは子どもの頃、私たちとは別の世界を見てたんじゃない……?」

これらの食い違いを「単に顔の好みの違い」では片付けられず、私は一つの仮説に至った。

「自分のことを醜いと思い込むあまり、自分以外の存在が全てすごくかわいく見えていただけなのではないか?」

「だとしたら全く根拠のない比較をして、勝手に絶望していたのではないか?」

「だとしたら美醜の判断なんてごくあやふやなものなのではないか?」

思春期から20代にかけて、あんなに絶望して悩んできたのはなんだったのか。

そりゃあ自分が「(街で話題になったりスカウトされるような)すごくかわいい子」ではなかったことは事実だけど、そんなに生きるか死ぬかレベルで苦しむほどのことではなかったんじゃないか。

イグアナの娘 (フラワーコミックスα)』というマンガがある。菅野美穂さん主演でドラマにもなった。

マンガも読んだしドラマも観たけど、当時は「自分のことを醜いと思い込むことでイグアナに見えちゃうなんて……そんなことってあるんだなあ。人の心理ってすごいんだな」と完全な他人事としか思わなかった。ドラマ化から30年近くたって初めて「あれ、この心理状態って自分にも一部当てはまるのかも?」と気づいたところ。

時間をかけて自分で気づくしかない

自分は客観的で冷静、理性的な人間だと思っていた。

だからこそよけいに思い込みが強固になってしまっていた。

「私が出した結論だから他人がどう言おうと間違っているわけがない、私のことは私がいちばんよくわかっているんだ」と。

「あなたは自分のことブサイクだブサイクだって悩んでるけど、それはただの思い込みかもよ?」と言われたことも何度かあったけど、そのたびに「思い込みなわけないじゃん! どう見てもブサイクなのに気休め言わないで!」と反発してきた。

だから、顔で悩んでいる人に他人が何を言っても無駄だということは身に沁みてわかっている。

時間をかけて自分で刷り込んでいった思い込みだから、時間をかけて自分で解いていくしかない。

今でも、あの「私はブサイクだ」という強い思い込みはいったいなんだったんだろう……とポカンとしている。

人間の「冷静」とか「客観的」とか、たぶんあんまり信用ならないです。

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