投稿した絵への反応が気になりすぎて、Twitterを見るのが怖くなってしまう
絵に反応をもらえないと、自分自身を否定された気がしてつらい
という人向け【だったら、こんなにも反応を気にしてしまう理由を根本的に考えてみることで、理屈や整理がつくのではないか?】と試みた記事。
以前の自分は「自分の絵に反応があるかどうか(できればたくさんの反応があるかどうか)」を気にしまくっていて、それはそれはしんどかった。
最初の頃こそ「反応がない……ではもっと上手くなって反応をもらえるようになろう!」とか、「反応がない……では反応を気にしないように心の持ち方を変えてみよう!」とか、いろいろ気持ちの持ちようを工夫してみていた。が、どれも結局は対症療法にすぎなくて、よけいしんどくなっていた。
そもそも、どうして私はこんなに他人からの反応や評価に振り回されてしまうんだろう。このつらさはなんなんだ?
気持ちの根っこを突き止めて自分なりに解決方法を模索していったら今はほとんど気にならなくなったので、それについて書きます。
※あくまでも「自分の場合はこういう糸口で考えてみた」という話です。心理学については知識の古い点も多いかと思うので、興味のあるかたは調べてみてください。
もしかして、とっくに心理学とかで説明されているのでは?
発達心理学の本で思春期の心の揺れについて読んでいたら「あ、こういう感覚は大人になってからもSNSで感じたことがあるな」と思いあたることが多かった。
- 自分のしたことに反応してもらえないと、自分の存在を否定されているみたいで不安になる
- 無視されると不安が高じて怖くなってしまう
- みんなが自分のことを悪く思っている&言っているような気がしてしまう
- 評価や反応(いいねなど)の数を人と比べて落ち込む
SNSで絵を描く上で感じていたこれらのモヤモヤは、なんだそうか、思春期だったのか……と気づいた。
だったらどうすれば乗り越えられるのか、とっくに学問的に説明がついているはずだ。
それに思春期は誰もが通って苦しんで思い悩む、言わば成長痛みたいなものであり、何も自分が特別に無能だから苦しんでいるとかではないんだな。そう思えるようになっただけでもかなり気がラクになった。
思春期をやり直しているのかもしれないな……
自分はろくな思春期を過ごしていない。当時は自分の悩みに向き合おうとしなかったし、それにともなった成長もしてこなかった。
自分とまわりを並列に考えてしまうと劣等感しか抱けなかったので、それが怖くて、「私は他の人たちとは違う。孤高でいいんだ」と思い込んでいた中学生だった。今こうして書くのも恥ずかしい……。根拠もなく虚勢を張って孤立していた。こういうのもある意味で思春期なのだろうけど。
しかし自分は大人になってもそのままずっと努力せず、向き合うべきことに一切目をつぶって、どんどんトシだけ重ねていった。プライドだけ高くて何もできない、そのくせ努力はしない人になった。
どうやら、思春期のあのへんを目をつぶってやり過ごしてしまったせいで、生きづらくなった気がしてならなかった。
目をつぶってスルーしてきたことに、もう一度向き合いたいと思うようになった。
では、一般的な思春期ってどんな感じなのか
たとえば発達心理学では、思春期の人間関係についてこんな感じで説明される。
成長による変化が起こることで心身ともに不安定になって、親から距離をとり、そのかわりに「チャムグループ」と呼ばれる仲間関係を形成する。同じ不安定さを持つどうしで集まるために仲間意識が強く、同質性を求め、ときに排他的であったり同調圧力を伴ったりする。
ようするに同世代でかたまって「私たち友だちだよね、同じだよね?」「あなたは私のこと好きだよね?」「私はこれでへんじゃないかな? 恥ずかしくないかな? 大丈夫だよね?」みたいな、不安定な自分の存在を仲間どうしで確認しあうような時期。中学生の頃のクラスにそんな雰囲気たしかにあったし、SNSでは大人どうしでもこんな感じの空気が残っているように感じる。
自分は思春期にあれをやっていない。「だってそんなグループの仲良しごっこはくだらないし意味がないじゃん(実際のところうまくやる自信がなくて仲間に入れなかっただけ)」と一人で孤独とにらめっこをしながら中学時代をやり過ごしたタイプだった。これもまた思春期のあり方だったのかもしれないけど。
大槻ケンヂさんの小説で、自尊心をもてあました男子中学生が休み時間やることもなくずっと手を洗って過ごす様子が書かれていたけど、そんな感じ。
「だってそんな仲良しごっこ、必要なくない? 同質な仲間うちで固まって確認ごっこして、なんの意味があるの?」たしかにあれは不毛でくだらなく見えた。でも、今思えばあのへんが社会性(自分が生きやすく生きるためのコツ)を身につける第一段階のチャンスでもあった気がする。
思春期の「課題」である【自己効力感】を取りこぼしている
エリクソンによると発達段階ごとにクリアするべき「課題」があって、前思春期の課題というのは【自己効力感】を得ることなのだそうだ。
発達というのは段階を踏んでなし得るものであり、スフィア盤やスキルパネルのように順番に取得していかないとキャラが成長できない。いきなり「つるぎのまい」ができるようになるわけではなく、両手剣スキルなり片手剣スキルなりを順番に伸ばしていくことで大きなスキルが使えるようになる。
思春期〜青年期は、同世代の似たような仲間うちでお互いにジロジロ監視し合い牽制し合いながら過ごすうちに「どうやら私は人よりこれが得意みたいだな」「私はこの点においてならばみんなの役に立てるな」みたいなことが分かってくる時期らしい。たしかに、自分の長所はグループ内で相対的に見たほうが見つけやすい。欠点も然り。
で、「まわりと比べて私はこれが得意みたいだな、もっとがんばりたい」「あの子はこれができてすごい、私にはできない……悔しい!」ということが見つかれば、コツコツと努力して伸ばすチャンスになる。
しだいに仲間内で褒められたり、役目を得たり、評価されたり、頼られたり。逆に生意気だと圧をかけられたり奇異な目で見られたりして、得意の出しどきを見極めたり、言い方を工夫したり……。と、小さなグループ内で自然と社会性(自分が生きやすく生きるコツ)を身につけていく。
この社会性を身につけていくうちに自信が固まっていき、「これくらいのことなら自分はやればできる。たぶんこれからも、やればけっこうなんとかなるはずだ」となっていく。これが【自己効力感】なのだと思う。
言わば、自信を得る方法をつかみ、人の中で生きやすく生きていく術を学ぶこと。これが思春期に人間関係に揉まれながらクリアすることになる「課題」なのかな?
あ、私それ思春期にクリアしてないな……。完全にサボってるな……。
同世代を完全に拒絶して一人で壁に向かってただけだから自分の長所も短所も分からないし、長所を伸ばそうとか短所を克服しようとかもしたことなかった。当然「やればできる」という実感も、得たことがあまりない。そりゃあ自信も持てないし、生きやすくもならないだろう。「他人の言うことなんて意味ない、群れたくない」と嘯きつつも人の評価に振り回されて、不安になってばかり……。
どうやら私は【自己効力感】というものを取りこぼしているのかも。
思春期の取りこぼしを、もう一度拾いに行こうと思った
ではもう一度拾いに行こうと思った。
幸いにというかなんというか、SNSのめんどくささは疑似思春期のようなもの。今さら中学校に通わずとも、同調圧力や競争意識、いいねの数のヤキモキ、コンプレックス、誰かは持ってて自分は持っていないもの、なぜかすごく羨ましく思える相手……SNSにいるだけで、自分が取り組みたい課題はいくらでも見つかる。
無力で何も持たない思春期に戻ったつもりで、SNS上で思いっきり人と比べてヤキモキしてみたり、同調圧力に息苦しさを感じてみたり、いいトシこいてコミュ障発揮して落ち込んだりしてみた。思春期にやらなかった苦悩をいまさらじっくり味わってみた。
その一方で「私はこれが得意かも?」と思うことをコツコツとがんばってみたり、「どうしても苦手だな(でも克服したいな)」と思うこともコツコツとがんばってみることにした。しんどいときは「うんうん、思春期だからしょうがないね(でも思春期よりはまだラクなはず)」と思うと少し力を抜くことができた。
小さな達成感をたくさん得てみるようにした
絵に関しては、たとえばこんな感じ。
- 継続することが苦手だから、3ヶ月だけ毎日30分でも絵を描く時間を作って「毎日がんばれたぞ! やればできた!」を体験してみた
- パースが全然分からなくていつもごまかしていたから、講座を受けてみて「少し分かった! でも今のところはこれが限界だな」と満足してみた
- 安定感のある人体を描けなかったから、美術解剖学の本を1冊模写してみた
- 色使いを褒められたことがあったから、配色の本を買って参考にしてみた
とにかく「私はこれができない→どう克服する?」「私はこれ得意かも→どう伸ばそう?」と小さな目標を立てて一つずつクリアし、「やればできたぞ!」という達成感を得ることを意識した。
ボチボチとこんなことを10年くらいやっていたのだけど、どんなに小さなことでも「やってみたら自分にもできたぞ!」と感じるのはとてもとても嬉しいことで、少しずつ気持ちが安定してきたように思う。
自信をつけるのって、誰かに褒めてもらうことよりも「やってみたら自分にもできたぞ!」「がんばったら克服できた!」を自分の中に積み重ねるほうが結局は早いし大切なように感じた。
一つ一つはごくささいな、「フン、それくらいできたからってなんなの?」「そんなの人から教わりたくない」「できるけどバカらしいからやらないだけだし」とか言って昔の自分なら怠けてやらなかったようなこと。それらを一つ一つバカ正直にやってみたら、しんどい中にも新鮮な楽しさがあった。
やりたかったデザインの仕事に再チャレンジしてみた
得意と苦手に向き合っているうちに、なんというか生まれて初めて謙虚な気持ちになってきた気がする。
今まで「私だってやればできるけど、挑戦してないだけだし」と失敗を恐れて挑戦しなかったことにも、少しずつ取り組んでみた。
その一つが、ずっと諦めていたデザインの仕事をすること。
絵以外にも、思春期に怠けていた勉強をしたり、資格を取ったりということもしてみた。(特に数字、経済が苦手なので、FPの勉強や簿記をごく初歩からゆっくりやって試験も受けました)
デザインの仕事に挑戦したことは、特に大きな【自己効力感】になった。
パッケージデザインの業務(副業)で、決して大きな仕事ではないし派手な実績でもないのだけど、他人から見たら全然大したことではないだろうけど、「自分は社会の中で得意を生かして、こういうことができるんだ」という感覚が、とても支えになってくれた。それまで自分の得意ジャンルで他の人の役に立つ経験をしたことがなかったから。
10年以上かかったことなので一言では説明しきれないし、一筋縄ではいかず行きつ戻りつなのだけど、敢えて簡単にまとめれば、
苦手なことをコツコツやった→「私でもやればできる」と自信がついてきた→謙虚になった→他人の評価や反応が気にならなくなってきた
ということだった。一瞬でラクになるとか、考え方を変えるだけで解決するとか、そういう簡単なことではなかった。
「私にはまだ思春期な部分があるんだな」
「私まだ思春期引きずってるのでは?」と気づいた時点で、「なーんだ、そっかあ、思春期か」とだいぶ見通しは立った気がした。けど、思春期にサボっていたぶんの「悩み直し」にはけっこうな時間がかかった。
でも、今はまわりの反応を気にして一喜一憂することはほぼなくなっている。人生ずっと背負って行くのかと思っていた重い悩みのうちの一つに、自分なりになんとか折り合いをつけられつつある気がする。
特に最近の時代ではライフサイクルが以前よりも変化していて、だいぶ年齢がいっても思春期を引きずりがちなのだそうだ。老年期にさしかかるときに、大きな変化が不安になって思春期のような心の揺れが起こるとさえ聞く。
でもこれで思春期の揺り戻しが来たときの対策方法はつかんだ気がするから、もし今後再び老年期に気持ちが揺れてもなんとかできそうだ。「なんとかできそう」と思えるこれも【自己効力感】なのかもしれない。
自分用メモとして、まわりの反応が気になったり自分に自信がなくなったら、
- 苦手なことは易しいところからゆっくりやる
- 小さな「やってみたら私にもできたぞ!」「苦手を克服できたぞ!」を積み重ねる
- やりたいけどできなかったことに挑戦してみる(可否は問わない)
というのを試していきたいと思います。これらは自分には効いた方法なので。
また、今回調べたり考えたりしてみたことで、「この世の悩みってすでに学者さんなど誰かがいろいろ考えてくれていて、私が知らないだけですでにどこかに答えが存在するんだな」「だいたいのことは私だけじゃなく人類が通る悩みなんだな」と感じ、冷静にもなれた。
「この記事あんまりピンとこない、そうじゃないだろ」とか「自分の悩みとずれてんな」と思えば、自分なりに書籍や講座などで心当たりを探してみることで、どこかに「これだ!」という答えが存在しているかもしれません。