「私はリアルな絵が描きたいわけじゃないし、デッサンなんかやる意味ないと思う! ……でも絵が伸び悩んでいるんだよな……やっぱりデッサンやらなきゃダメ?
「自分の絵がなんとなく下手なのは分かっている。けどデッサンは苦手だからしたくない!」
と葛藤している人向け【デッサン苦手だよね分かる……でもこんなふうにしてみたらイヤになりにくくなりました】という記事。
「絵というのはすべて現実のデフォルメである」というふうに自分はとらえている。
というのは、絵を描くというのは現実(三次元)を平面(二次元)に写しとる行為だから。
三次元から二次元に写しとるのだからどうしても適切な変形(デフォルメ)が必要になる。つまりその適切な変形を無意識で自然にできるように訓練するのがデッサン。
ただの訓練で、言ってみれば思うように体を動かすための準備運動とか発声練習とか吹奏楽の音出しとかのようなもの。
なのになぜか「デッサンしようとすると自分の下手さがイヤになる」とか「全然上手く描けなくてイヤになる」と思ってしまって、嫌いになる、苦手になる。それって「準備運動してるのに体が動かなくてイヤになる! 私なんてどうせ才能がないんだ! スポーツなんてやめてやる!」みたいなもので、それはちょっと誤解なのではないか。
そこらへんの考え方を、自分はどんなふうに変えてみたかということについて書きます。
デッサンをして良かったと感じること
ちょっとデッサンしたからと言って劇的に画力が上がるわけでもないし、「デッサン嫌いだし絶対にしたくない! 必要ない!」というならしなくても全然かまわないと思う。
けど、自分の場合はこんな点が良かったかも?
形をとらえるのが早くなった
デッサンをやると、どうしても美術解剖学も並行してかじることになる。自分の場合、これで描くスピード(形をとらえるスピード)が以前より早くなった、というのが良かった。
以前は、たとえば手を描くにも資料と首っ引きで、ちょっと描いては資料を見て、違うなっつって消して……みたいにきょろきょろと見比べて描いていたから当然進みがトロかった。思った通りにパッと描けないというのは、絵を描いていてかなりストレスになる。しかも時間をかけたわりに形が取れていなくて「あんなに時間かかったのにこの体たらく!!」と、よけいストレスになっていた。
今は手の骨格や筋肉の位置などをざっくりと把握したことで視覚だけに頼らずに理屈でも補完できるので、より早く楽に形をとれるようになった気がする。「絵を描きたいけどおっくうだな」と感じることがかなり少なくなった。
モデルがなくても描けるようになった
たとえばあぐらを組んでいる人を描くとき、以前の自分はネットで「あぐら イラスト」とかで検索して、参考画像を探さなければ描けなかった。でもこれはちょっと加減を間違えるとトレパクになったりするし、ちょうどいい資料はなかなか見つからないし、見て描いても自キャラとのバランスがとれず、下半身だけ変にリアルに……。結局「このポーズあきらめよう……」という挫折体験になる。
デッサン&美術解剖学で股関節や脚のバランスを把握したことで、資料を見ながら理屈で補完してなんとなくそれっぽく、違和感がない程度に描くことはできるようになった。描きたいと思ったポーズをあきらめなくてもいい程度にはなった。
この「なんでも思った通りのポーズがなんとなくそれっぽく描ける」というのは、絵を描く上でとんでもない喜びだというのを感じている。
つまり、デッサンをしてみたことで、絵を描く上でのおっくうさやストレスがあれこれ少しずつ減った感覚があります。
デッサンって何すればいいの?
生身の人間(三次元)を紙の上(二次元)に変換して描き写すのが本来のデッサンだけど、ご家庭ではそうもいかないので、
- 写真を見て描く
- 動画を観て(あるいは一時停止して)描く
- スケッチ本を見て描く
なども含むことにする。スケッチ本を模写するのはプロの「三次元→二次元」変換を目の当たりにして真似ることができるので、もっともデッサン会に近い効能がある気がする。
自分が使っているスケッチ本やデッサン本はこちら。
どうせなら推しの写真や動画を見て描こう! というのは一長一短があるなと最近感じていて、なぜならば、「うまく描けない、推しはこんなんじゃない! 全然ダメだ!」になってしまったりとか、「推しに目がくらんでしまって、変に美化して描いてしまった」みたいなことがあるから。
ネット上の、なんの思い入れもない、全然知らない人を見て描くくらいがちょうどいい気がしてきている。準備運動だから。
※もしSNSなどに「今日のデッサン」みたいに投稿したい場合は、著作権フリーの写真を使うのが無難かも。
自分はフリーフォトの『O-DAN』さんの写真を使っている。
上手く描こうとしないためのコツ
デッサンをやる上で最大の敵、「上手く描けなくてモチベ下がる……」。
上手い人やプロが「上手く描く必要はない」とよく言うけど、そう割り切れたら苦労しないよ! 「上手く描こうとしなくていい」のは分かったから、「上手く描こうとしないコツ」を教えてくれよ! となりますよね……。上手い人はそこをあんまり教えてくれない。
自分も「上手く描こうとしない」ために気の持ちようとかツールをあれこれ試行錯誤してみたのだけど、こんな感じ。
- 「デッサンは準備運動」と心得る
- 練習感を出すため、コピー用紙にボールペンで描く
- 軽い気持ちで、失敗しても消さずに隣に描く
- 終わったら捨てる(見返して評価しない)
- 毎日(でなくとも、ひんぱんに)描いて、自分の下手さに慣れる
- 一度でうまくやろうとしない、明日の自分に期待する
- 人に見せない
- 自分だけで自由にやる
デッサンは準備運動
デッサンは準備運動であって、それ以上でも以下でもない。
準備運動にラジオ体操をしていて「くそっ左腕が上がりにくい!こんなんじゃ完璧なラジオ体操とは言えないよ……私には才能がない、あーやる気無くした、くそっくそっ」とかならないと思う。せいぜい「あれ、私って左腕が上がりにくいクセがあるんだな」程度で。
それと同じで、思うように描けないところは「あ、私ここが苦手なんだな、意識しておこっと」「今日はこのへん調子悪いな、様子を見て続くようなら対処しよう」くらいで自分はとどめるようにしている。
コピー用紙にボールペンで描く
コピー用紙にボールペンで描く。
"ただの練習感"が出るから。
今まで自信作を描いてきたお気に入りのクロッキー帳に、削り方もこだわった4B鉛筆……さて描きますよ……みたいにそろえてしまうと、身構えてしまうから。
これは江口寿史先生の「ゴミに出す前の写真でいい」「練習だからボールペンでいい」というツイートで気持ちが楽になったので真似している。ちなみに江口先生はゲルボールペン(ユニボールシグノ0.38)を使っているとのこと。
消さずに、となりに描く
「全然ヘタクソだ!」となっても消さずに、次の紙を出さずに、すぐとなりに描く。
失敗した! 全然ダメだ! とつい思ってしまうけど、それを見て見ぬふりしたらそこで終わってしまうから。
「次はもっとここ直して描こう。はい、次」と言ってとなりに描く。
実際に「はい次〜」と口に出すと私は気が楽になる。
※別に色をつけたり仕上げたりする必要はなく、自分なりに「今日は形が取れたからよし。このくらいにしといてやるか」程度のところで切り上げる。
すぐに捨てる
ただの練習なので、描いたら終わり。「自分なりに、今日はこれでまあいいか」となったら捨ててしまう。デッサンって、やっているその瞬間こそに意味があるのであって、見直してあーだこーだするものでもないと思う。
自分の発声練習とか自分のラジオ体操を毎回録画して「この日の私は声が出てないなー、腕が上がってないなー、あーダメだー下手だー嫌になっちゃう……」とかしないのと同じで。
毎日描いて、自分の下手さに慣れる
たまーに絵を描いて、なんとなくうまく描けて、ホッとする……みたいな感じだと毎回ハラハラドキドキしてしまう。綱渡り感がすごい。
私がそうなんだけど、音ゲーとかでも失敗するのがすごくイヤで、一度どうにかクリアしたらもう二度とやらない。
一度きりの成功体験を大切にあがめたてまつってしまい、よけいに失敗が怖くなってしまう。まぐれからまぐれの綱渡りみたいな人生なので、根本的なところで全然自信がつかない。
これを脱するために、失敗するという感覚にもっと慣れてみようと考えた。
そのためなるべくひんぱんに(できれば毎日とか)描いて、うまく描けない経験をむりやり何度も超えてみた。「失敗を恐れない練習」のため、音ゲーも毎日やってみた。
そうすると、音ゲーはやっぱりスコアも上がってミスも減ってきたし、「ミスして悔しい!」という感覚も楽しめるようになったし、「よし、次はフルコンボ狙ってやる」みたいな前のめりの欲も持てるようになった。絵にはスコアがないけど、同じような意欲や楽しさが感じられるようになった。
これ、絵と音ゲーだけでなく人生全般すごい楽になったのでおすすめしたいです。
(失敗に慣れる練習としては、デモンズソウルやダークソウルなどの死にゲーもよかったです)
一度でうまくやろうとせず「何度も描けばいいや」
「今日はうまく描けなかった……」という日があったとして、「やっぱり私は絵が上手くなれないのかも」みたいに考えるとユウウツになってしまう。
上の萬田久子さん(じゃないけど)の写真模写も「あんまり上手くいかなかったな」と思っているけど「また描けばいいや。次はもう少しなんとかなるだろう」で置いておく。
「次はもう少しなんとかしたい」という場合は紙を捨てずにデータを消さずに取っておいて、後日また再トライする。
再トライしても「うーん」となったらまた置いておく。
最終的には「10年後くらいの自分ならなんとかするんじゃないかな」くらいの気持ち。未来の自分は意外とやってくれます。たまには丸投げで任せてしまうといいと思う。
人に見せない
デッサンとかスケッチはただの練習なので、本来は人に見せなくてもいいもの。
「せっかく描いたし」「練習がんばってるのをみんなに見てほしい」「練習だけど私けっこう上手くなってない??? ねえねえ???」というのがあってついSNSに載せたくなる。
けど、「良い反応のために行動する」というのをやっていると「良い反応がなければ行動したくない」になってしまい、目的がぶれていってしまう。(アドラー心理学の【賞罰教育】の考え方を参照)
また「人に見せて良い反応をもらおう」と思って描くと力んでしまったり、上手く描けないと焦ったりしてしまうんじゃないかと思うので、基本的に練習は人に見せないようにしました。このことがいちばん自分にとって良かったかもしれない。
最後に自分の絵柄に変換して描いてみる
「リアルな人間、しかも知らん人を描くなんてつまらない。楽しくない。私は好きな絵柄で推しを好きに描きたいんだよ!」というのもデッサンがめんどくさい理由かもしれない。自分もそうだったので分かる。
けど全然知らない人を描くのが最近けっこう好きになった。なぜなら全然知らない人って、力を入れずに適当に描けるし、冷静に見られるから。
もし「どうしても推し以外描きたくない」という人は、人体の形を取る練習をした後で自分の絵柄に変換して描いてみることもできる。推しに体格が似ている人物を推しに変換して描く、みたいな練習をしている人も自分のまわりには多い。
デフォルメ絵だけだとなぜ伸び悩むのか
マンガの絵もアニメの絵も、作者のフィルターを通していったんデフォルメされている。
デフォルメというのは"変形"という意味で、つまり正確ではないということ。
その不正確さこそが、描き手の個性だと言える。
例えば『鬼滅の刃』の吾峠呼世晴先生の描く耳や指(MP関節・基節骨)は、独特のデフォルメ(変形)がされていて個性がある。
"現実"が吾峠先生のフィルターを通すことで"吾峠タッチ"になっており、それがマンガという表現方法の面白さでもあるだろう。
でも初心者が変形済みの人体を「これが正しい」と思い込んでしまって描き慣れてしまえば、当然そこで伸び悩むことになる。
デフォルメ済みの二次元を真似て描くだけではなく、現実(三次元)を紙(二次元)に写しとる過程で自分なりのデフォルメを生み出していくことが【画力】なのだと思う。
こんなケースはデッサンが不要と言えるかも
最後に、「上手い絵を描くのにデッサンは必要ない」という論をネットではよく見るけど、どういうことなんだろうと考えてみた。
ぱっと見て上手いなと感じる絵って、2パターンあると思う。
- 人体の形がしっかりしていて、それほど描き込んでいないしエフェクトも使っていないのに十分上手いのがわかる、というパターン
- 人体の形はよく見るといろいろおかしいところがあるけど、描き込みがすごかったり塗りの技術が高くて目を引く、というパターン
前者はいい素材だから塩だけで十分おいしいもの、後者は安い素材だけど工夫して味をつけておいしくしているもの。
どっちが良いかってことは別にないし、後者のうまさだけを目指すならデッサンは特に必要なく、そんなのそれぞれのスタイル次第だということになる。
でも「絵が伸び悩んでいる……もっと上手くなりたいんだけど、うーん、どうしたら上手くなるんだろう?」と悩んでいる人って、たいていすでに後者のうまさはクリアしていて、その上で伸び悩んでいる(=そこそこの絵は描けるようになっていて、でもその上を目指したい)ということなのではないだろうか。
そういう場合であれば、デッサン(自分のやり方で、より魅力的に、現実を紙の上に写しとっていく試み)が画力に効く良きタイミングなのではないかと思う。