Twitterで絵描き同士が馴れ合いするの、めんどくさい……でも交流しないせいでジャンルで孤立してしまっていいねももらえないし、ああ、うっとうしいなあ……
と悩んでいる人向け【Twitterでの交流ってもっとシンプルに「何かを発信する」←「いいねする」で良いのではないだろうか?】と考えてみた記事。
- 「Twitterでは交流しなきゃいけないのか?」←そういうことではないよな……
- 「でも馴れ合わないといいねしてもらえないし……」←そういうことでもないよな……
- 「Twitterは苦手だけど、Twitterを使わなきゃ絵を見てもらえない」←そういうわけでもないよな……
ということについて。
そもそもTwitterにおける「交流」ってなんだろう
自分はTwitterのサービス開始当初から使ってきたけど、雰囲気は変化してきていると感じている。
サービス開始当初は確か「SNS」ではなく「ミニブログ」だった。誰かのつぶやきに黙っていいねをする、いいねされたら黙ってよろこびをかみしめる。それが十分に「交流」だったと思う。(そもそもユーザー自体が今ほど多くなかったので、Twitterで絵を見てもらおうとする人も今ほど多くなかった気がする。)
今は「FF外から失礼します! 色使いが最高です! フォローさせてください!」「うおおお五体投地してます!!! こちらこそ○○様の絵をいつも拝見させていただいております!!! よろしくお願いします!!!」「えええ光栄です!!! お名前はなんとお呼びすれば良いでしょうか……!」などとテンション高く元気よくやりとりをする場所みたいなイメージがある。(個人のイメージです)
黙っていいねするのも、活発にやりとりするのも、どちらもTwitterにおける「交流」なのだろうと思う。
自分も「元気にテンション高いやり方の交流」を試してみたものの、どうも向いていなかったので、自分が好きだった頃のTwitterの「黙っていいねしたり、いいねされたら黙って喜びをかみしめたりする、ごくシンプルな交流」に立ち戻ることにした。
そもそも自分は積極的に人に話しかけることが苦手だったからこそ絵を描き始めたので、「絵を見てもらうために人に話しかけなきゃ」なんていうのは本末転倒だった。
幼稚園のときも小学生のときも中学生のときも、黙って絵を描いていたら誰かが静かに興味を持ってくれて、それをきっかけに深く付き合える友達ができたりした。Twitterにおいても、自分の「交流」はそれでいいのではないか、と思った。
「交流しないといいねがもらえない」のか?
「馴れ合いめんどくさいし、交流なんかしたくない、でもしなきゃ、他の絵描きにせっせと媚びを売っていいねを交換(?)しなきゃ」みたいに考えると、そりゃあしんどい。
ソシャゲのスタミナみたいな「いいね」
でも「いいね」ってそんな、ソシャゲのスタミナみたいなものでいいんだっけか。「フレンドさんにハートもらったからこっちもあげなきゃ」みたいな、それもまたSNSの楽しみ方の一つなのかもしれない。
けど、あくまでも「楽しみ方の一つ」であるので、自分は乗らない。けど、否定もしない。
自分の絵に興味を持ってもらうきっかけにはなるかもしれない
じゃあ「馴れ合いをするとそんなにすっごくいいねが増えるか」というと、前述のソシャゲのスタミナみたいに義理で微増くらいはするのかもしれない。
あと、言葉を交わすことで自分に親しみを持ってもらえるので、自分の絵にも興味を持ってもらうきっかけにはなるかもしれないな、と思う。いつも自分の絵にリプで感想をくれる相手には、やっぱり少なからず親しみを持ったりするし、この人はどんな人なんだろう、どんな絵を描くんだろうと興味を抱いたりもするし。
大前提として、「よっぽど上手い絵でもない限り、よっぽどその人の好みにドンピシャでもない限り、人は他人の描いた絵に大して興味は持たない」というのはあると思う。
逆に言うと、大して上手くなくても、好みドンピシャでなくても、好意的に思っている相手が描いた絵なら多少は興味を持つかもしれないということでもある。
よその子どもが描いたラクガキを見ても何とも思わないけど、自分の子どもが描いたラクガキは興味深く見たり過剰評価したり深読みしたりしてしまうのと同じで。
がんばって無理してたくさん言葉を交わすことで(いわゆる「フォロワーさんと絡んで」)、なにかアドバンテージが得られるとしても、それくらいなのではないかと思う。
Twitter以外にも絵を見てもらえる場はある
最近は何でもかんでも情報発信がTwitterなので「Twitter苦手だけど、Twitterやめたら絵を見てもらえなくなっちゃうしな……」とつい感じてしまうけど、絵を見てもらう場は他にもある。
pixivなどの創作系SNSだってあるし、今も個人サイトを作っている人もけっこう見かける。ときめきますね。
まずは自分がいいねをしたいTLをつくってみた
いいねが来ないとか評価されないとかぼっちで輪に入れないとか、「交流できてない孤立して寂しい自分」がつらくてどうしようもないときにすぐに試せる行動として「自分の好きなものに、心からいいねする」というのをやっている。
「いいねが欲しい」という渇望は、「本当にいいねと思っていいねをすること」で少なからず癒される。(自分の場合。)理屈は分からん。なぜか。愛されるより愛したいマジでの精神は自分を救う気がしている。
脳は自分と他人を区別しないとか言うし、人に親切にすることで癒しのホルモンが出るらしいみたいなことも聞いたことがあるけど、脳科学者でない自分にはこれは説明が難しい。
見たいものだけフォローする
だからTwitterを続ける上で、ただ一つ、「自分の好きなもので埋め尽くす」というのを心がけている。
今の自分がTwitterを続けているのは「いいねをもらいたいから」ではなく「好きなものをいっぱい見て、いいねをしたいから」。「おおっ新作が上がっている……!! うれしい……今回もすてきだ……ありがとうございます……いいね……!!」と渾身のいいねをしたいがためにTwitterをやっている。
自分にとっては「いいね」することも立派な交流(「この絵が好きっす!」と伝える手段)であるから。
そのために、「見たいもの」「好きなもの」だけをフォローするようにした。
ハッシュタグでガバッと増やしたり手当たり次第フォローしたりすると必ず合わない人が出てくるし、「あんまりこの人好きじゃないけどフォロワーさんの相互さんだからフォローしなきゃダメかな……」みたいな人付き合いに巻き込まれてTLを見るのがおっくうになり、結果的に好きなものからも遠ざかってしまったからだ。
「この人のイラストを見たい!」「この人のつぶやきを見たい!」と思える人だけをフォローしてTLを心地よくすると、いつもいい気分で興味を持ってTLを見ることができ、TLがオアシスになる。自然と、渾身のいいねや勢いあまってたまにはリプもしたくなる。自分にとってはこれだけで十分に「交流」。
これこれ。Twitterのこの感じが好きだったんだよねえ……。
あとは自然にゆっくり仲良くなる
「え、だってそれじゃ私からの一方通行じゃん! 私はいいねが欲しいんであって、いいねをしたいわけじゃないよ!」という人もいるかもしれない。
でもそれって相手からすれば「え? いいねをしたくないけどいいねしろってこと? そんなの私からの一方通行じゃん!」ということになる。
お互いにクレクレばかり言っていても膠着状態が続くだけになってしまう。わずかでも「好き」の水流が発生しないと、状況が回っていかないのではないか。
絵を描くことがすでに「交流」だと思う
手癖でざかざかっと、なんの意図もなく描くラクガキも楽しいのだけど、自分の中ではそれは「交流」ではなくいわば「独り言」。(Twitterは独り言を好きに言う場でもあると自分は考えているので、ラクガキも投稿する。)
「推しのこの表情が好きなんだよな〜! 伝わるかな?」とか「自分的にはここがツボ。ここが! ここ!」みたいな意図を持って絵を描くこと自体が、言葉はなくとも「交流」な気がしている。
そして、他の人が描いた絵から意図を感じ取って共感していいねをするのもまた、言葉はなくとも「交流」だと自分は考えている。
無理をして世間一般、主流のやり方に倣わずとも、より自分の得意なやり方でのコミュニケーションをしていくことにしたらラクになった、という話。