「自分の取り柄は絵を描くことしかない」と思ってた昔の私へのツッコミ

絵を描くことなら誰にも負けない。これが私の取り柄なんだからがんばらなきゃ

絵を描くことくらいしか私には取り柄がない。絵だけは絶対やめないで一生描いていかなくては……

と思い詰めてつらくなってしまっている人向け【意外と取り柄っていっぱい見つかるし、増えていくし、限定してしまうと苦しくなってしまうかも……】という記事。

「自分の絵に需要がない」という悩みについて

唯一の「取り柄」のはずの絵がうまくいかなくて心がぐらぐらしていたとき、自分はどう考えてみたか、という記事です。

そもそも取り柄でもなんでもなかった

自分自身「自分の取り柄は絵を描くことくらいしかない」とずっと思っていて、それゆえにたいへん不安定な10代〜20代を過ごしている。

美術科受験のために中学のときにデッサンを習ったり、美大受験を経験したりしたことで、「私の取り柄は絵だ(私の取り柄は絵であるはずだ)」と思い込んでいて、そのくせ思ったような評価が得られるわけでもなく、ネットには上手い人だらけ。プライドと卑屈のはざまで常に圧死寸前だった。

それってもはや取り柄でもなんでもないのでは!?

とあの頃の自分にツッコミを入れたい。今となっては面白すぎる。

お察しのとおり、「まわりのやつらにセンスがないから分かってもらえないだけ。そのうち理解者が現れるはず!(傲慢な八つ当たり)」「じゃあ私の生きてる価値ってなくない? 生きてちゃダメじゃん……(急なドン底ネガティブ)」を行ったり来たりする、たいへんにめんどくさい人として生きていた。

「絵が上手い」を取り柄にするとしんどい

なぜしんどいかというと、

  • 井の中の蛙であることを思い知らされるから
  • むりやり順位をつけることになるから
  • 絵を描く楽しさよりも、焦りや不安が強くなってしまうから

自分より上手い人はたくさんいる

ネットがない頃は自分の絵を他人と比べるといってもせいぜいクラスの中とか部活の中、広くても県の美術展くらいなものだった。もちろん自分より上手い人の作品を目にすることはあったけど、同世代に天才でもいない限り、受けるショックは知れている。

ネットが普及し始めた頃はそれでもまあ「すごい人」は一握りで、しかもネットで絵を描いている人自体がまだ少なかったし、ネット検索で積極的に見つけなければ見つけられなかった。

現実を見ようとせずに、目をつぶっていることもできた。

それが今はSNS時代。スマホを覗くだけで上手い人がわんさか目に入ってしまう。自分よりかなり年下なのにめちゃくちゃ上手いとか、自分の長所・特徴だと思っていた画風でとっくに何倍も上手い先達がいたとか。それをみんなが褒めていて、いいねがいっぱいついている。

下手したら毎日毎日ショックを受け続ける。

そんなの、「自分は絵が上手いのだけが取り柄だ」なんて思っていたら精神が死んでしまいます。

絵に順位はつけられないから不毛な争いになる

「取り柄」というからには人より優れていなければならないのだけど、絵には順位がつけられない。

どうしても「いいねの数」みたいなもので判断するようになってしまう。

自分より下手な人(と勝手に判断した相手)がいいねをたくさんもらっているとキーッとなる。「ここが描けてない」「色でごまかしてるじゃん」とかあら探しをする。「フォロワーに媚びていいね稼ぎしてるんじゃない?」「セルフリツイートね〜、そこまでして見てもらいたいの?」などと自分の「取り柄」を死守するために、脳内でもんもんと他人を攻撃する。(昔の私の話です)

ブーメランが全て自分にぶっ刺さり、これもいずれ精神的に死ぬ。

気軽に休んだりやめたりできなくて疲弊しがち

「自分はそこそこ上手く描ける。ジャンル内では目立つ程度に評価されている」という時期もあった。

だからと言って気持ちが楽になるかというと逆で、「この立場を維持しなければ!」とよけいに必死になる。新たな上手い人が出てきてジャンル民がチヤホヤすると焦りや不安に駆り立てられる。(昔の私です)

休みたいなと思っても、休んでいるうちにもっと上手い人が現れて自分の地位を脅かすと思うと休むのがこわいし、ジャンルを移動したくても「ジャンルで評価されている」という今の自分のアイデンティティを失うのがこわくてできない。自分の中のモチベーションが薄れてきてインプットの時間を取りたいと思っても、絵から離れるのがこわい……。

カッスカスのモチベーションでカッスカスの手癖の絵を投稿し続けながら「違う、こんなんじゃだめなんだよ、画力が落ちたって思われてるかもしれない、いいねが減った、どうしよう、でも描き続けなきゃ」と葛藤する。

これもまた、遅かれ早かれ、精神的に死ぬ。

じゃあどうしたらいいのか

「だから考え方を変えましょう」と言ったって変わらない。「いいねを気にしないようにしよう!」とか思い込もうとしても、まあうまくいかない。経験上、ふたをすることでよけいにこじれてしまう。

「誰かに必要とされて描いて、それを喜んでもらう喜び」を思い出した

自分の場合は仕事で絵を描く機会があって、そこで命が助かった。

「仕事で描く」というのは、お金を得られるとかではなくて「誰かに必要とされて描く」という点でよかった。また、お金をもらって描くことで「責任感を持って描く」という点でもよかった。

誰か一人のお客さんに「いいですね、イメージ通りです!(デザインの仕事の場合)」とか「似てるー! 嬉しい!(似顔絵を描く仕事の場合)」と喜んでもらえるのって、SNSのいいねの数とはまた違う喜びがあった。

「そう言えば私は、似顔絵を描いてその場が盛り上がったりほっこりしたりするのが好きだったんだよな……」というのも思い出した。

きれいごとに聞こえるかもしれないけど、誰かに喜んでもらうというのは人間の根源的な欲求だと思うので、やっぱり嬉しいものなのだ。

仕事で絵を描くっていうのもいろいろあって、ココナラとかクラウドソーシングとか、もっと気軽にやるならSkebとかもある。

無限の「直し」でプライドが粉々になったことがよかった

また、仕事で絵を描くことでプライドがいったん粉々になったのも、たいへんよかったと思っている。

描きかけでも容赦なく見られて、容赦なくダメ出しされて、無限に直しをさせられて……とやっていたら、プライドもへったくれもなくなってくる。

「絵が上手いのが取り柄だ!」なんて思っていた自分は遠い過去のものになり、「へこたれずに何度も直せるのって取り柄だよな……これは本当に私の取り柄だ!」になった。この取り柄は絵以外にもたいへん役にたっている。

別の趣味を作ってアイデンティティを分散させた

むりやり別の趣味を作って取り柄を増やすというのもやった。

自分は美大進学をやめて普通の大学に進学したのだけど、もう一生絵を描かないつもりだったので、演劇、スポーツ、アウトドア、文学などあらゆることに手を出して4年間を過ごした。

やってみると意外と得意なこともあり、「取り柄……っていうほどでもないけど、あれも好きだしこれもできるし」と言えることも増えた。

「絵しかない!」という状態だった頃よりも、だんぜん精神が安定している。

「取り柄」にするのをやめたら、絵を描くのが楽しくなった

自分の「取り柄」を渇望していた頃の自分は、「誰かと比べて私は優っている」という証拠がほしかったんだと思う。

たぶんそういうのって、若いうちは誰だってあると思う。「自分は特別な何者かだ」と思っていたい時期があって、それが原動力になって努力できたりもする。

たいていの場合は進学や就職で「自分は何もない凡人だったな」みたいにいったん挫折して、そこから改めて自分なりに積み上げ始めて行くように思う。

ただ、その「自分は特別な何者かだ」という幻想がいつまでも砕けないといつまでもしんどい。

自分の場合はデザインの仕事をさせてもらうことで完膚なきまでにプライドが粉々になり、同時に「絵を描いて喜んでもらうこと」の楽しさを改めて感じて、命拾いをした。

今の自分には絵以外にもささやかな取り柄はたくさんできたのだけど、絵に関する取り柄があるとしたら「絵を描いていて楽しいと思えること」だと思う。

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