「上手く描こうとすると楽しくない…」だったらどう描くと楽しいのか?

絵を上手く描きたいわけじゃないから練習はしたくない。練習なんかする意味がない。だからいつまで経っても上手く描けなくてイライラする……

と絵の練習に拒否反応を感じる人向け、【だったら自分はどんなふうに絵を描くと楽しいのか、どんなふうに絵を描きたいのかを考えてみた】という記事。

「もっと絵が上手くなるために練習したい。どんな練習が有効かな?」とせっせと情報を集めて取り組み、上達することを楽しむ人もいれば、「絵は楽しく描きたいから練習は必要ない、ただ好きに描くのがいいんだ」という人もいる。自分は長らく後者の人間だった。

でも、ここからが私の身勝手な話なのだけど、「ただ好きに描くのがいいんだ」と言いつつも、上手くなりたくないわけではなかった。いいねの数が気にならないわけではないし、上手い人と自分を比べて嫉妬したりもしていた。でも練習はしたくない。

要するに「好きなように、楽しく、上手く描きたいし、人から評価もされたい。でも上手く描こうとすると楽しくないから練習はしたくない」。

今思うと我ながらムシが良すぎて腹が立ってくる。でも、この堂々巡りから気づけばいつの間にか抜け出していた。それにはいくつかきっかけがあったので記録として書いておいてみる。

「練習なんか必要ない」と私が思いたかった理由

まず、昔の自分が「練習なんか必要ない」と思っていた・思いたかったのはどういう心理だったのか。

平たく言うと自分を過大評価していて、「自分はそこそこ上手いから練習する必要ない。なのになぜか実力に見合った評価をされていない。理不尽だ」と考えていたんだと思う。愚かすぎて、読んでいる人も腹が立つと思うけど、自分でも昔の自分を思い出すと腹が立つ。

そんな感じでいくら描いても上手くなるわけなかった、という話

「練習なんかしたら、自分のオリジナリティを消してしまう……」と思っていた

「自分にはきっと、今はまだ隠れているけど絵の才能があるんじゃないか」と思っていた。

小さい頃からお絵描きが好きで小学校の写生大会では毎回賞をもらっていたし、美術科進学のためにデッサンも習っていたし、ポスターコンクールで入賞して自分の絵のポスターが県内のあちこちで貼り出されたこともあったし。これらのちゃちな実績が、井戸の中でカエルを育ててしまった。

自分は才能があると誤解したまま年齢を重ね、高校、大学と進むにつれて雲行きが怪しくなっていく。高校では美大受験を目指して指導を受けていたものの、まわりには上手い人がたくさんいて、すごいセンスの人もたくさんいて、自分に陽が当たらなくなってきた。

でも、自分は心を入れ替えたりしなかったし努力もしなかった。

「私の生来の天才的オリジナリティが失われてしまうじゃないか。絵なんて教わるものではない!」と嘯いて、せっかく合格した美大ではなく普通の大学に進学した。

今思うと「この美大に進学したらセンスの塊みたいな"本当にすごい人"がいっぱいいて自分はみじめになるだろう、必ず挫折するだろう」という、プライドを守りたい人特有のカンがはたらいただけの話で、要するに自分は逃げたのだった。

「ありのままの、荒削りな自分で勝負していくべき!」と思っていた

昔の漫画雑誌の新人コンテストでよくあった選評が「荒削りだがみずみずしい感性で魅力がある」みたいなもの。

確かに、まだ洗練されていないだけで素晴らしいものは世にたくさんある。

自分も「まだまだ技術は未熟でも、ありのままの自分の魅力というのがあるはずだ。みずみずしい感性とやらが……。それを評価してほしい」と思っていたのだが、今自分で書いてても、もう恥ずかしさも一周まわって笑ってしまう。

何もせずただただ年齢を重ねていき、物理的にもあちこち乾燥してきて、いくらなんでもさすがに「若木のようなみずみずしい感性」とか言えなくなっていった。

プロアマ問わず世の中の作品の、本当に若々しくみずみずしい感性に触れていくにつれ、「あれ、ひょっとして私にはそんなものなかったのでは……?」と、20代も後半に差し掛かる頃にやっと気づけたのだった。

「趣味だから楽しく描きたい」に着地した

大きなきっかけのひとつは、同人活動を再開したことだった。とにかく描くことが楽しくて、少数ながらも楽しんでくれる人ができて、「上手く描こう」という考え方は消えていた。

自分にとっていちばん大切なことが「自分の思いついた面白いことが他の人にうまく伝わるかどうか」であり、「それを受信して面白がってくれる人が一人でもいれば最高にうれしい」になったからだ。

このとき、上手く描こうとすることより、相手に伝わることが私にとっては何より楽しく感じられた。

私が練習をしたくなかった理由

「ありのままの感性で絵を描きたい」「自分の描きたいことを好きなように描きたい」みたいなのって、本来すばらしいことだと思う。しかし、自分の場合はそれを単に練習をしないためのもっともらしい言い訳にしていた。

そもそもなぜ絵の練習がそんなに嫌なのかというと、たぶん、自分の絵の下手さと向き合うのが怖かったから。

特にデッサンやクロッキーなどをやると自分の下手さが一瞬でバレバレになってしまうのだから、そりゃ楽しいわけがない。自分のダメさと歯噛みしながら向き合って「なにくそ!」と練習できる人・練習せざるを得ない人(受験の実技などで)もいるのかもしれないけど、自分にはそんな不屈の根性はなかった。

「私はそこそこ絵が上手い」という魔法にかけられていたいのに、むりやり叩き起こされてしまう。それがこわかった。こわいと認めることもこわかったから、「絵の練習なんて必要ない、自分の感性を大事にして好きに描くべき」というもっともらしい言い訳を盾にしていた。

どうしても描きたいことができたから、技術を磨きたくなった

「どうしても描きたい、どうしても伝えたい」ということがあってそのために絵を描くならば、伝わりさえすればそれで十分とも言える。

けど、技術が足りないせいで伝えたいことが伝わらないのなら、「もっと上手く、もっと思い通りに伝えたい!」となり、伝えるための表現や技術を磨きたくなる。

ここで私は初めて「より効果的に伝えるために上手くなりたい(もっといろいろな技術を知って身につけたい)」と感じることができた。人体の構造を勉強したり模写したり自分で繰り返し描いてみたり、上手い人はどう表現しているのかを観察したりして、結果としてそれが練習になっていった。

しかし、自分ではこれは練習だと感じていなかった。ただ「もっと効果的に伝えたい」をかなえるために夢中になっていた。時間を忘れて楽しくあれこれ取り組んだ。(絵を描いたことがある人ならば、誰しもこういう経験があるのではないかと思う)

ああ、たぶん絵が上手い人ってこれを繰り返していつのまにか上手くなっていったんだろうなあ……と感じた。伝えたいことがあって、それに対する熱意が人より強かったり持続的だったりするのかも?

伝えたいことを、よりうまく伝えるために絵を描く

自分の場合は、二次創作が「どうしてもこのネタを描きたい」「どうにかこのニュアンスを伝えたい(そのためにここをもうちょっと描けるようになりたい)」という原動力になった気がしている。

今まで絵を描いてきた中でいちばん楽しさを感じて、夢中になれた。

今まで描いたことのないものを描くために資料を集めたり、人の絵を見てどういう表現が自分の好みに合うのかを探したり、無意識でAmazonでデッサン本をポチって模写練習をしたりもした。

逆に言うと「どうしても伝えたい!」ということがなければ絵を描くことの意味って見つけにくく、上手い下手に囚われたり、練習"しなきゃ"になったりしてしまうのではないか。

上手く描こうとしないためにやってみたこと

とは言え「上手く描かなきゃ」とはつい気負ってしまう。「上手く描かなきゃ」という緊張感をなるべく薄めるために、自分もいろいろ試行錯誤してきた。

上手く描かなきゃ、という呪縛から自由になるためにやってみたのは、

  • 消さずに隣に描く
  • 描く回数を増やして「今日はここまで、また明日でいいや」にする
  • オフのアプリ(人に見せない絵を描くアプリ)を一つ持っておく

こんな感じです。

「今のままの自分で認めてほしい」というのは、思春期特有のこじらせだったような気もする。自分の場合はそれが20代半ばまで続いてしまったので恥ずかしい感じになってしまったのだけど……。

もっと早めに気づきたかったなあとも思うけど、これからは楽しく絵を描いていけるし、もしまた混乱しても戻り方も分かっているので、少し気を楽に続けていけそうです。

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