「絵の練習なんてしても、自分には才能がないから意味ない」
「自分は絵のセンスが無いから、どんなにがんばって練習しても無駄」
と思ってしまっている人向け、【私の場合はそれ、言い訳にしてました。ついでに自己陶酔でした。】気づいたきっかけと、直したら楽になったという話。
「どうせ私は才能もセンスもないから努力したって意味ないんだ……」と言って、努力をしない言い訳にしていた。
「あーあ、絵が上手い人はいいな、才能とセンスがある人が羨ましい……私はどうせそうはなれない落ちこぼれで、生きてる意味ない……悲しい……つらい……」と自己憐憫、自己嫌悪に浸って生きてきた。
それって自己陶酔だったんだなと気付いてやめてみたら嘘みたいに楽になった話です。
「私もまさにそれかも! 私もそれやめて楽になりたい」という人向けの記事です。
こうして書いていても腹が立つ、昔の自分の話
読んでて腹が立つと思うけど、昔の私についてもう一度書いておく。
20代の頃、絵を描いたり小説を描いたりシナリオスクールに通ったりして、何かどれかの方法で30代までには特別な人間になりたい、なれるんじゃないかと思っていた。なれなかったら生きてても無駄だから人生終わりにしようくらいに思っていた。
そもそもまわりのすごい人についていけないのが怖くて美大への入学を辞退し普通の大学に行ったくせに、まだ絵を諦めてなかったのだ。それでダメなら小説とか、シナリオライターでもいいや。とにかく人よりすごい何かになりたい。特別な何者かになりたい。アドバンテージを取りたい、なんかの手段でどうにかなるだろという気持ちだった。
当然、たびたびプライドがへし折られる。
まわりの人が、言いにくいこともたくさん言ってくれた。
「あれになりたいこれになりたいって言うわりに何も努力してないじゃん。なれるわけないよ」
「小説家は『何枚書かなきゃ』とか思わないんだよ。書かずにおれないから書くんだよ、あなたにはそういうのないでしょ? 偽物だよ」
「あなたは私のことそうやって妬むけどさ、言っとくけど私、あなたよりよっぽど努力してるよ」
そのすべてを私は「嫌なことを言ってくるバカ」「ムカつくバカ」として切ってしまったのでした。〜完〜
になればまだよくて、人生は続いて行く。
そして私は「だけどもしかしたら才能とセンスがあるかもしれない。なんかのきっかけで花開くかもしれない、あーあ、早く開花しないかなあ……イライラ」という根拠のない望みにすがり、大した努力もせず、ただ待っていた。(今考えると意味がわからん。)
つらいときは「どうせ私は才能もセンスもないし……ダメな自分は生きている意味ない……」とイジイジと枕を濡らすのが気持ちよく、そのままなにひとつ得るものなくひたすらムダに年をとっていった。
とにかく、なにも努力していなかった
「チヤホヤされる絵描きになりたい」と思って、それがかなわない場合どうするかというと、努力すればいい。
「あれになりたいこれになりたいって言うわりに何も努力してないじゃん。なれるわけないよ」
と人から言われたときに、
「はあ!? 人一倍努力してるし!」とムカッときた。
努力? 一日5時間自己流で、人にも見せず、添削にも出さず、うまい人に習うこともせず、エンエン描き散らかすのが努力なんですかねえ? と今の私だったら煽り倒すだろう。
コンクールに出したり、うまい人に習いに行ったり、添削してもらったりすると、自分がたいして上手くないことを思い知ってしまうからしなかった。そもそも「周りにうまい人がいっぱいいて挫折するのがこわい」という理由で美大から逃げている。それが努力? はあ笑っちゃうわねえ。
たぶん、たいして絵なんか描きたくなかった
一人の友人(向こうは友人とは思ってなかっただろうけど)から言われた、
「小説家は『何枚書かなきゃ』とか思わないんだよ。書かずにおれないから書くんだよ、あなたはそういうのないでしょ? 『小説家になりたい』だけでしょ? そんなの偽物だよ」
『絵を描きたい』のではなくて『絵描きになってチヤホヤされたい』というのでも全然いいし、それを目的にしたっていい。
しかし私の場合は「別にチヤホヤされたくありません! 私の望みはもっと高尚なんですのよ! 結果としてチヤホヤされるなら、まあ、受け入れないことはないですけど(チラッチラッ」みたいな感じだった。
コンプレックスだらけの私は「何かの方法で人より特別になりたい、人より上の立場になりたい、それには絵描きになるのが手っ取り早いかな」と思ってただけで、たぶん、たいして絵なんか描きたくなかったんだろうと思う。あの頃は。
「どうせ才能もセンスもないから努力しても無駄」と言って拗ねるだけ
当然のことながらなんの成果もあげられず、ただひたすら歳をとっていったわけですが。
そして言うのが「どうせ私は才能もセンスもないから努力しても無駄」という、思考停止できる魔法の言葉。
何も芽が出ず、今こんなにみじめな状況なのは私のせいじゃない。私にセンスと才能がなかったからだ。ああ、かわいそうな私……。神に選ばれなかった者のみじめさよ……。オロロンオロロン……。
と言って毎日布団に入るとイジイジ泣いて「ああ、朝が来なければいいのに」みたいに絶望して、でも朝になったら起きて……みたいなことを繰り返してムダに歳を取った。
地獄にでも落ちているかのような無限ループに、心の限界が近づいていた。
自己陶酔に浸ってる自分に気づいて、自己陶酔をやめてみた。
小林秀雄がこんなことを言っている。
自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、最も逆説的な自己陶酔の形式だ
人生の鍛錬―小林秀雄の言葉―(新潮社)
まさにこれは、自分が今までの人生でずっとやってきたことだ。それを一行でまとめられてしまった!
小林秀雄がこんなふうに書いているくらいだから、私だけでなく、人の心の中ではよくあることなんだと思う。
ああ、うすうす気づいてはいたけれど、きっぱりと言葉で突きつけられるとすごく恥ずかしいな……と感じて、このお手軽な自己陶酔グセをやめることにした。というか、すっかり陶酔から醒めた。
自分は普通でたいしたことなくて、自己陶酔できる部分がない。特別な能力なんてない。でもそれが私なんだ。それでいいんじゃない?
折しもそのころ知人からデザインの仕事を斡旋されて、自分の能力を思い知ることができたのも助けになった。デザインの仕事で私はたくさんの恥をかき、わからないことは訊き、できないことはできませんと言い、自分ってたいしたことない人間なんだなということをじっくりと思い知った。同時に、人並みながらもせいいっぱい工夫して勉強して、よりよいものを作ろうと努力できた。
ここではじめて正規のスタートラインに立ち、やっとスタートを切ることができたのだと思う。
自己陶酔に気づくと同時に、思い切って自分の能力を試せる場所に出て、現実を突きつけられたのがよかった。自分の場合はそれがデザインの仕事だった。
みんながみんな同じように解決するとは思わないのだけど、自分の場合はこんな道すじをたどりましたという話です。
お金をもらって仕事として責任を持って絵を描くという経験をしてみるのって、かなりのドライな現実。ゆえに、夢想をさまよっている心のクセを見直すきっかけになるのかもしれない。