Twitterにもpixivにも上手い人がいっぱいいるし、私が絵を描く意味ってあるのかな……
と思ってしまっている人向け【絵を描くことに意味って必要なのだろうか。評価されないとか上達しないとかの悩みを、意味があるとかないとかの極論にすり替えてしまっていただけなのではないだろうか?】と考えてみた記事。
「まわりには上手い人がいっぱいいるのに、私が絵を描く意味ってあるのかな」「私よりもっと上手い人が二次創作で同じネタを描いているし、どうせもう私なんかが描く意味ないよね……」みたいに、醒めたようなあきらめ感というか、卑屈な虚無感を抱えていた時期が、自分にはあった。
でもこれって自分の心をしつこく分析していたら、本当の気持ちは、
「私なんかが描く意味ないよね」ではなくて「私の絵も、もっと見てほしい!」
だったのではないかと思い至った。
「私の絵も、もっと見てほしい!」って、我ながら幼稚な欲求みたいで恥ずかしくて、素直にそういう望みを抱くことができなくて、「(私の絵を見てほしい! けど下手だしセンスもないし、こんなこと望むのはおこがましくて恥ずかしいし、どうせ無理だよね)……私なんかが絵を描く意味ないよね」と一足飛びで諦めモードになっていたんじゃないかと思う。
絵を描くのって体力も気力も消費するし、時間もかかる。趣味としてはそこそこたいへんな労力だ。
なのに「こんなにがんばったのに見てもらえない」となるとつい気持ちの落とし所がなくて「私が絵を描く意味ってあるのかな……?」みたいに、遠回しにいじけることしかできなかった。
で、遠回しにいじけたところで現状に変化があるはずもなく、いじけが進行して「Twitterやめます……」になって、やっぱりもう一度アカウント作り直して、やっぱりまた見てもらえなくて、同じことの繰り返し。
いつまでたっても「私が絵を描く意味なんてないよね……つらい……」という思考に首まで浸かって、出られなくなってしまっていた。
いいかげんそれも疲れてきたから、自分の気持ちとしっかり向き合ってこのループから抜け出すことにしたときの話です。
「私が絵を描く意味ってあるのかな…」と思ってしまうとき
自分の場合、「こんなにがんばってるのに報われてない!」と感じるときに「私が絵を描く意味なんてない」と思ってしまっていた。
でもそれは「絵を描く意味とは?」とか「絵なんか描いても意味がない」とか抽象的な言葉で高尚なお悩みみたいにしてただけで、要するに本心は「もっと報われたい!!!」だったんだと今は分かる。
なので、冷静になって考えてみた。
- どうなったら意味があると思えるのか。
- どうなったら「報われた」と思えるのか。
- へえ、報われたいの? 報われたいんだね……
「がんばったわりに評価されないから、描く意味がない」
半日かけて描いた自信の力作にいいねが3つ、とかだと、たいていの人はガッカリしてしまうと思う。
でもそこでガッカリしていると「評価されたくて描いてるの? そんなの不純! 自分の描きたいように描いたなら他人の評価なんて気にするべきじゃない。自分が楽しめばいいんだよ!」みたいにポジティブ正論を言われてしまって気持ちがぺしゃんとなってしまうので、「私が絵を描く意味ってあるのかな……」と遠い目をするしかない。
もう、そういう言葉遊びでこんがらがるのはやめて、現実的な答えを求めることにした。
つまり、「自分なりのがんばり」と「まわりからのいいね」が釣り合うような場所を探した。これは絵の上手い下手ではなく、最大のポイントは【興味】だと思う。
たとえばハムスター好きクラスタの中で超絶上手いネコの絵を描いてもたいして興味を持ってもらえず、あまりいいねはつかない。でもネコ好きクラスタの中でネコを描けば、それほど上手くなくても「ネコ好きフィルター」によって甘めに評価され、いいねが多くつくということがある。
- 自分がネコの絵を描きたいなら、ネコ好きさんたちの中でネコの絵を描く。
- たくさん見てもらえて、喜んでもらえる。
- さらにやる気が出て、もっといい絵を描こうと思える。
これって、もっとも「絵を描く意味」とやらを実感しやすい環境なんじゃないかと思う。
※二次創作をしている人は感じたことがあるのでは。推しを描いている人がいるというだけで嬉しくていいねをしてしまうこの現象。
まずは興味を持ってくれる人に見てもらわねば始まらない、と思い、pixivなどの創作系SNSを併用したり、適切なハッシュタグをつけて投稿したりと、自分の絵に興味を持ってくれる人に見つけてもらいやすい工夫をするようになった。
今まではただTwitterに投稿するだけで自分の絵を見てもらえる(自分の絵にはそれだけの良さがある)と思っていたフシがあり、それもなかなか傲慢だったなと今は思っている。
「がんばっても上手くならないから、描いても意味がない」
「がんばって練習してるのに上手くならないから、絵を描く意味がない……」というのも、以前はよく感じていた。
"なんでもそこそこ極めるためには10000時間かかる説"というのを知って「うわー、私はたいして時間も割かないくせに舐めたこと言ってたんだな……」と考えるようになった。
※10000時間の法則には賛否両論あるけど、そういう説があるくらいに「そのために割く時間」も上達するためには一つの要素であるというふうに自分は受け止めている、という話です。
そこまで時間を割いているわけでもないくせに「どうして上手くならないんだろう!?」と焦っていたわけだけど、単に全然足りていなかったということで、これもなかなかに傲慢だったなと思う。
あと以前のジャンルの絵描きさんで「私はこんなにがんばってるのに……」「私は人一倍努力しているのに……」みたいなことを口癖みたいにいつも言っている人がいた。それを見ているうちに「は? その程度でがんばってるつもりなの?? 考え方が甘いよ。全然上手くならないのが努力不足の証拠でしょ!」みたいにイライラしてきて、それがブーメランとして見事に自分にぶっ刺さり、自分のことを冷静に見られるきっかけになった。
「センスがないから・才能がないから描いても意味がない」
自分よりめちゃくちゃ若くてすでに絵が上手いとか、どう逆立ちしてもセンスがかなわないなとか、そういう人を見てしまったときって「私が絵を描く意味なんてないのでは……」となる。体から力が抜けていく。
でも「センスがある人はいいな……私はセンスがないから絵を描く意味ないや……」というのも、今考えると短絡的だった気がする。そしてセンスは「あるかないか」ではなく「磨くか磨かないか」だと思うようになった。
磨く工夫もせずに、自分の身に備わっているものだけで勝負できると思っていたわけで。
その結果完敗して「あーあ、センスがある人はいいな……」で済ませようとするのも、なかなかに自分は傲慢だった。
絵の才能ってどんなものなのか、果たしてそういうものがこの世にあるのかないのか、自分には分からない。「なんだかんだで絵を描き続けている」ということだって、一つの才能だと思うし。
すべて原因は自分の「傲慢さ」だった
自分の場合、「私が絵を描く意味なんて無い……」となってしまっていた原因は全て自分の「傲慢さ」だったということになる。
20年ちょっと同人活動をしてきて「どうせセンスないし……」「でも人よりは絵が描ける!」「私より上手い人たくさんいるし……」「でもまあまあ上手いはず!」みたいな、プライドと卑屈のミルフィーユになっていた。けっこうな層の。倒壊寸前の。
ご縁があってデザインの仕事を経験したことがあるのだけど、そのときに完膚なきまでに打ちのめされた。なけなしのプライドが消し飛び、ミルフィーユがグシャグシャになって、それが良かったと思っている。自分の傲慢さに気づくきっかけになったから。
自分はとても謙虚とは言えない人間だから、趣味だけで絵を続けていたら気づけなかったかもしれない。
「絵を描く意味なんて無くてもよくない?」の境地へ
モヤモヤ悶々したときってつい「私が絵を描く意味なんて無いよね……」みたいに言いたくなってしまっていたけど、それは本質を突いておらず、「意味」とか言い出すことで本当の悩みがぼんやりとしてしまっていた。
そのせいで自分は、気づくまでの長い年月、ずっとずっとぼんやりしたプライドと卑屈を抱えたまま悩み続けるハメになってしまった。
本当の望みが「もっと評価されたい」とか「もっと上手くなりたい」とか「もっとセンス良くなりたい」とかであるなら、「じゃあそのためにどうすればいいのか」を現実的に模索したほうが近道になる気がする。
「私が絵を描く意味とは……」という言葉に逃げ込まなくて済むようになった今は、とても気が楽になっている。